全米50州で7番目に人口の多いオハイオ州は、中西部に位置し、ミシガンやペンシルバニアを含む5つの州に囲まれ、北は五大湖に面している。最大都市のコロンバスはアル・ハフトの指揮の下、1920年代から1960年代の前半までは米国プロレス界における主要都市の1つだった。その他の都市としては州北部でエリー湖に面したクリーブランドや、ケンタッキー州との境にあり同州ルイビル、コロンバス、そしてインディアナ州インディアナポリスの丁度間くらいに位置するシンシナティがある。
1926年11月19日、コロンバスの地元紙『コロンバス・ディスパッチ』に、「ライトヘビー級の上限が175ポンドである限り、ヘビー級において何ポンドもの差がある選手の間で試合をするのは不公平であり、ジュニアヘビー級を新設するべき。それについてアル・ハフトに意見を求めたら同意した。」という記事が掲載された。同記事では、世界ヘビー級王者ジョー・ステッカーよりもジョー・ペゼックの方が優れた選手だということは、誰もが認めているにも関わらず、25ポンドという体重差に泣かされているという指摘もあった。
そのペゼックは翌1927年2月9日コロンバスでルディ・デュセックを破り世界ジュニアヘビー級王座を主張するが、3月16日、もう1人の王座主張者ジャック・シェリーと対戦した際、シェリーを場外に投げ負傷させたため反則で敗れてしまう。『コロンバス・ディスパッチ』ではシェリーによる王座奪取、『シンシナティ・ポスト』ではペゼックによる王座防衛と、それぞれ違う報道がされる中、両者とも引き続き王座を主張。
1929年1月9日コロンバスでペゼックとシェリーの間で統一戦が行われた。1本目は48分という長時間だったが、2本目はあっさり2分15秒と、いずれもハンマーロックでペゼックのストレート勝ち。翌週、ペゼックはハフトとマネージメント契約を結ぶ。晴れて正式に世界ジュニアヘビー級王座に君臨したペゼックだったが、3月には、王者ガス・ソネンバーグが対戦を拒否したことを理由に世界ヘビー級王者を名乗り始めたので、ジュニアヘビー級王座は空位となった。
1930年1月、ナショナル・ボクシング・アソシエーション(NBA、WBAの前身)は、プロレスにおいても独自の選手権や規約を設けることを決定し、ライトヘビー級、ミドル級、ウェルター級の3階級世界王座決定戦を全てオハイオ州内で開催するが、ジュニアヘビー級王座を制定するのは数年後のことだった。9月にはNBAのプロレス部門がナショナル・レスリング・アソシエーション(NWA)としてNBAから独立するが、ヘビー級王者認定に関してNWAとアル・ハフトとの間で意見の相違が生じ、ハフトは10月末にはNWAを脱退、ミッドウェスト・レスリング・アソシエーション(MWA)を発足。だがMWAもまた1939年までジュニアヘビー級王座を認定することはなかった。
NWA(アソシエーション)は、1936年にカリフォルニア州ハリウッドで世界ジュニアヘビー級王座決定トーナメントを開催。4月20日に行われた決勝戦でテッド・クリスティを破ったアルビン・ブリット(アルビオン・ブリット)が初代王者に認定されたが、当然のことながら、この王座がMWAの本拠地であるコロンバスで防衛されたという記録は見つかっていない。だが、同年12月に同じくハリウッドでブリットを破ったデュード・チックが王者になってからは、オハイオ州内でも北部にあるアクロンやマリオン、トレドなどで防衛されるようになった。

1938年9月ハリウッドで王座奪取後、オクラホマ州を経て12月にオハイオ州入り。翌年2月末に再びオクラホマ州へ転戦すると4月にタルサでジョン・スウェンスキーに敗れ王座転落。
1938年9月にハリウッドでチックから王座を奪取したボブ・ケナストンは、オハイオ州でトレドを中心にサージャント・ジョージ・ケナストンのリングネームで王座を防衛。同年12月15日、ダン・サヴィッチに王座を奪われるが、1週間後の12月22日にはポール・ボゼルがサヴィッチを破る。年が明けた2週間後の1939年1月5日、今度はボブ・ケナストンとして登場し、ボゼルから王座奪回。
2月6日、トレドでデュード・チックの兄ボビー・チックがケナストンを破るが、反則絡みだったため、NWA(アソシエーション)会長のハリー・ランドリー大佐は王座移動を無効とし再戦を要請。翌週2月23日行われた試合ではケナストンがチックを破った。だがこの試合を最後にケナストンはオクラホマ州に転戦。オハイオ州の世界ジュニアヘビー級王座も自然消滅してしまう。
だが同じく1939年、MWAがついに世界ジュニアヘビー級王座決定トーナメントの開催を発表。9月26日デイトンで開始したトーナメントの決勝は12月19日に同地で行われ、元世界ライトヘビー級王者ビル・ウィドナーがオレゴン・マクドナルドを下し初代王者に認定。

オハイオ州以外にもミシガン州やアイオワ州、ケンタッキー州などで世界ライトヘビー級およびジュニアヘビー級王座を防衛した後、1940年代には太平洋岸、南西部、ニューヨーク州、ハワイ準州など各地区のジュニアヘビー級王座も奪取。
1940年代前半は、主にジュール・ラランスやマルティノ・アンジェロ、フランキー・タラバーらが保持したが、1941年7月2日には元NWA(アソシエーション)世界王者ボブ・ケナストンもタラバーからMWA王座を奪取。
タラバ―はその後1943年10月から1954年7月にかけて9度ジュニアヘビー級王座を奪取した。1948年7月、ナショナル・レスリング・アライアンス(NWA)が結成され、アル・ハフトも発足メンバーの1人だったが、MWAは引き続き独自の世界王座を認定。1940年代後半には初代王者ビル・ウィドナーやボブ・カミングス、ルー・クラインらもベルトを巻いたが、彼らと王座をかけて抗争していたのは、後にカルガリーやロサンゼルスでも世界ジュニアヘビー級王者に認定されるジョニー・デムチャックだ。

1940年後半、世界ジュニアヘビー級王座を6度奪取、通算約2年9ヶ月保持。
1951年3月15日コロンバスで、後にサンフランシスコのプロモーターとなるロイ・シャイアーがジャッキー・ニコルズから王座を奪取するが、NWA(アライアンス)からの通告があったのか、4月からは『世界』の文字が外され、単に『MWAジュニアヘビー級選手権』と呼ばれるようになる。とはいえ、NWA世界王座が防衛されたという記録も見つかっていない。
MWAジュニアヘビー級王座は、1958年7月にレオン・グラハムが王者になった頃から次第に姿を消していく。グラハムが主にオハイオ州ヘビー級王者として活躍していたことも理由の1つかもしれないが、その頃グラハムはフランキー・タラバーと共に米国タッグ王者組として防衛することが多かったのも事実だ。また、東部ヘビー級王者バディ・ロジャースの大活躍により、もはやジュニアヘビー級の必要性もなくなったのではないだろうか。1962年夏、過去にフロリダ州やジョージア州、ルイジアナ州など南部諸州で世界王者に認定されていたクリス・ベルカスが短期間ながら防衛していたのがMWAでは最後の世界ジュニアヘビー級王座だったようだ。
1965年になると、ミシガン州デトロイトを本拠としたエド・ファーハット(ザ・シーク)のビッグタイム・レスリングがらデイトンにも進出。1967年2月25日、コロンバスのクーパー・アリーナでハフトによる最終大会が行われたが、その2日前シークが同会場でも初興行。以降、1970年代後半までオハイオ州全域で興行を続けたシークだったが、デトロイト地区は他に比べると選手権の数も少なく、独自にジュニアヘビー級王座を認定するどころか、ダニー・ホッジが何度も試合をしていながらも保持していた世界王座を防衛したという記録さえ見つかっていない。

オハイオ州ではジュニアヘビー級やライトヘビー級のみならず、ボボ・ブラジルやレオン・グラハムとのタッグでも大活躍。
同じく1960年代中期には、ペンシルバニア州ピッツバーグ地区でジョニー・ディファジオが世界ジュニアヘビー級王者に認定されており、1970年代後半には日本で遡及的に元WWWF王者として知られることになるが、オハイオ州の中でもペンシルバニア州との境に近いヤングスタウンやイースト・リバプールなどで王者として紹介されることはあったものの、殆ど防衛はしていなかったようだ。
1973年5月5日クリーブランドで、昭和プロレスファンにはお馴染みのナショナル・レスリング・フェデレーション(NWF)が世界ジュニアヘビー級王座決定トーナメントを開催。決勝でハートフォード・ラブを破ったレイモンド・ルージョーが王者に認定されたが、その後オハイオ州だけではなくNWFの領域内であるニューヨーク州西部やペンシルバニア州西部でも防衛されたという記録は見つかっていない。
1970年代後半にはシークがオハイオ州から撤退し、1980年にはジョージア・チャンピオンシップ・レスリングがオハイオ州に進出。1985年から1987年にかけてデニー・ブラウンやレイザートロンらがNWA(アライアンス)世界王座を防衛していたが、オハイオ州を拠点とした団体が世界ジュニアヘビー級王座を認定したのは、単発的ではあったがNWFが最後となった。
資料元:
- Wrestling-Titles.com
- The Columbus Dispatch
- Plain Dealer (クリーブランド)
- Cincinnati Post
- The Akron Beacon Journal
- Dayton Daily News
