1953年から1957年にかけて、ルー・テーズが統一世界ヘビー級王者として君臨した米プロレス界だったが、1957年のエドワード・カーペンティア戦後再び王座は分裂し、1960年代に入った時点では北米だけで少なくとも5つの世界選手権が存在した。
- NWA: パット・オコーナー
- NAWA(ロサンゼルス): エドワード・カーペンティア
- 大西洋体育協会(ボストン): キラー・コワルスキー
- ビッグタイム・レスリング(オマハ): ドクター・X
- モントリオール体育協会: キラー・コワルスキー
- スペイン: プリモ・カルネラ (1956年9月にセントルイスでルー・テーズを破ったという触れ込みで認定)
ミネソタ州ミネアポリスでは、1954年10月に他界したNWA創立会員トニー・ステッカーの後を息子デニスとウォリー・カルボが受け継いでいた。デニスは引き続きNWAに加盟していたが、1959年にデニスから興行権を買収したカルボとバーン・ガニアは加盟せず、翌1960年NWA世界王者パット・オコーナーが同地区認定US王者バーン・ガニアの対戦を拒否しているという理由で、「8月1日までにオコーナーが挑戦を受けない場合、ガニアを世界王者に認定する」と発表。結果、ガニアがアメリカン・レスリング・アソシエーション(AWA)初代世界王者に認定された。
1957年にルー・テーズを破りながらも、モントリオール地区会員エディ・クインのNWA離脱により王座奪取を白紙に戻されたエドワード・カーペンティアは、『魔術師の残骸』に詳しく書いたとおり、1958年5月にマサチューセッツ州ボストンでコワルスキー、同年8月にネブラスカ州オマハでバーン・ガニアに敗れ、それぞれ現地認定世界王座の新設に関わっていた。更にロサンゼルスでも1961年6月フレッド・ブラッシーにノース・アメリカン・レスリング・アライアンス(NAWA)世界王座を奪われる。ボストン地区の世界王座については『ニューイングランドの世界王座(1)』、後にワールドワイド・レスリング・アソシエーツ(WWA)に改称するNAWAの世界王座は『WWA世界ヘビー級選手権 (ロサンゼルス版)』にそれぞれ詳しく書いているのでそちらを読んでいただければと思う。
1959年4月には、かつてロサンゼルス地区のNWA会員だったジョニー・ドイルと、シカゴのフレッド・コーラーの片腕的存在だったジム・バーネットが結託、NWA非加盟の新団体が誕生。オハイオ州シンシナティやミシガン州デトロイトを中心にインディアナ州やコロラド州、カリフォルニア州北部まで勢力を広げた2人は1962年、アメリカン・レスリング・アライアンス(AWA)の名で、ドン・レオ・ジョナサンを世界王者に認定。ジョナサンは約半年間防衛した後9月にオハイオ州コロンバスでカール・ゴッチに敗れ王座転落。ゴッチは1964年9月コロンバスでNWA世界王者ルー・テーズに敗れるまでAWA(アライアンス)世界王座を保持した。その後ドイルとバーネットはオーストラリアに移り、ワールド・チャンピオンシップ・レスリングを設立。
ネブラスカ地区の通称『オマハ版』世界王座は、1962年8月25日にAWA(アソシエーション)世界王者バーン・ガニアがフリッツ・フォン・エリックから奪取。翌1963年7月27日にフリッツがガニアを破り両王座を奪取するが、ガニアは8月8日にテキサス州アマリロでフリッツを破りAWA世界王座、更には9月7日にオマハで再度フリッツを破り同地区版王座も奪回。オマハ版王座はAWA王座に事実上統一されることになったが、その後も時々オマハのみでのAWA王座移動があったようだ。
1961年4月、ベアキャット・ライトがキラー・コワルスキーを破り、ボストン版世界王座を奪取。だが2ヶ月も経たない5月下旬、ジャッキー・ファーゴに敗れる。ファーゴは1964年11月に同地区を離脱するまで王座を長期間保持した。
NWA世界王者パット・オコーナーは1961年6月30日、シカゴでバディ・ロジャースに敗れ王座転落。詳しくは『飼い慣らされた野生児』に書いたが、同年NWA会長に就任するシカゴのフレッド・コーラーと、ニューヨークやワシントンDCを中心に北東部を牛耳っていたビンス・マクマホンらがロジャースをほぼ独占したためNWA内部でも不調和が強まり、世界王者ロジャースを招けない会員達はやむを得ずAWA世界世界選手権試合を開催、または独自の世界王座を認定するなどで、混乱状態は1963年1月にルー・テーズがロジャースを破り王座奪回するまで続いた。

プロレス史に名を遺した存在だが、とうとう来日することはなかった。
ロジャースを引き続き世界王者として認定しようとしていたマクマホンとトゥーツ・モントが運営するキャピタル・レスリング・コーポレーション(CWC)は、ロジャースの王座転落に伴いNWAを脱退、オハイオ州クリーブランドでワールドワイド・レスリング・アソシエーション(WWWA)を発足し、ロジャースを世界王者とした。3月28日にはドリー・ディクソンがロジャースから王座を奪取するが、5月2日カール・フォン・ヘスに敗れる。
だが、このWWWAは、あくまでCWCによる実験的な団体だったのではないかと思われる。同じ頃CWCは東海岸でワールドワイド・レスリング・フェデレーション(WWWF)という団体名を使い、「ブラジルのリオデジャネイロで開催されたトーナメントに優勝」したとしてロジャースを初代世界王者に認定していた。新聞記事などで実際にWWWFの名称が現れ始めたのは春になってからだが、それから間もない5月17日、ニューヨークシティでブルーノ・サンマルティノがわずか48秒でロジャースを破り王座奪取。クリーブランドでも、夏が終わると、まるでヘスが王者だったことが忘れられたかのようにサンマルティノがWWWA世界王者として登場するが、その後同地でもWWWFの名称が使われるようになる。
CWCと提携していたシカゴのフレッド・コーラーも同様にロジャースを世界王者に認定し続けていたため、NWAとの関係が悪化し、1963年2月に脱退。インターナショナル・レスリング・アライアンス(IWA)を設立し、ムース・ショーラックを初代世界王者に認定する。だがこの頃は観客動員数も低下し、更には6月にCWCと袂を分かちテレビ中継も失う。コーラーは悪名高いジャック・フェファーをブッカーに起用し、7月12日にはジョニー・バレンタインがショーラックから王座奪取するが、翌月CWCの陰謀により王者バレンタインが離脱。コーラーとフェファーはバディ・フラーことエド・ウェルチを「ジョージ・バレンタイン」に仕立て上げ、10月に開催された王座決定トーナメントで優勝させる。11月15日、ボストン版世界王者ジャッキー・ファーゴが統一戦でジョージ・バレンタインを破るが、翌1964年、コーラーは興行権の一部をディック・ザ・ブルーザーとウィルバー・スナイダーに売却し、1965年11月に引退するまで2人の傘下でシカゴでの興行を担当する。

1974年7月に抗争中だった弟子ジェリー・ローラーに敗れるまで元祖『南部の帝王』として活躍したが、1950年代には各地で世界タッグ王者、1960年代にはボストンやシカゴで世界ヘビー級王者にも認定。
1950年代には北米の大半をその傘下に治めていたNWAだったが、AWAやWWA、そしてWWWFの出現により、米国におけるプロレス勢力図は大きく分割されることになる。だが実は、この敵対団体の誕生は、1950年代に独禁法違反の疑いで解散する羽目になりかけたNWAにより容認されていた。
WWAはロサンゼルスを中心にカリフォルニア州南部で活動していたローカル団体だったが、世界ヘビー級王座はカリフォルニア州北部やネバダ州、そしてハワイ州でも防衛され、専門誌では4大世界王座の1つとして紹介されることもあった。またフレッド・ブラッシーはWWA王座を基にジョージア州でも世界王者に認定。そして力道山による東洋人初の世界ヘビー級王座奪取や、更には大木金太郎による初の韓国での世界王座移動などを考慮すると、決してマイナー王座ではなかった。
1964年4月にブラッシーからWWA世界王座を奪取したディック・ザ・ブルーザーは、インディアナ州で独自にワールド・レスリング・アソシエーション(WWA)という同じ略称の団体を設立し、間もなくフレッド・コーラーから興行権の一部を買収しシカゴにも進出。7月にロサンゼルスでザ・デストロイヤーに敗れ王座から転落したが、インディアナでは引き続きWWA王者を名乗った。1966年3月、WWAはAWAと提携し、シカゴで行われたAWA世界王者マッドドッグ・バションとの統一戦でブルーザーはリングアウト負けを喫する。これは同地の興行権がWWAからAWAに移ったためで、これを機にシカゴではAWA王座のみが防衛されることとなったが、インディアナ州ではWWA王座が引き続き防衛。以後WWAはインディアナのローカル団体規模に落ち着くことになる。
『幻の世界王座統一戦』でも書いたとおり、1965年にはNWA世界王者ルー・テーズとWWWF世界王者ブルーノ・サンマルティノとの間で統一戦も計画されたが、テーズの反対で実現には至らなかった。結果、テーズとNWAの関係は悪化し、1965年の年次総会で一部の会員達からテーズは世界王座を返上するべきだという声が上がった。だが、テーズは返上ではなく、後任としてジン・キニスキーを推薦。1966年1月、テーズはセントルイスでキニスキーに世界王座を明け渡す。
1949年以来3度奪取し通算10年間保持したNWA世界王座に最後の別れを告げたその翌年、テーズは新興トランス・ワールド・レスリング・アライアンス(TWWA)から初代世界王者に認定される。TWWAは、トロントのフランク・タニーが「NWAを離脱して旗揚げした」ということになっていたが、1983年に他界するまでAWAやWWWFとの関係も保ちながらNWAを支え続けたタニーが離脱するわけがなく、実際には旗揚げ間もない日本の国際プロレスと放送契約をしたTBSがブッカーとして起用したグレート東郷によるものだった。1968年1月のシリーズに東郷やダニー・ホッジらと共に来日したTWWA世界王者テーズは、24日ホッジに敗れ早くも王座から転落。だが、TBSと東郷との間で金銭面での食違いが生じ、東郷はシリーズ中であるにも関わらず参加していた外国人選手ら全員を連れて途中帰国。TWWA世界タッグ王座はその後もしばらく続いたが、ヘビー級王座は自然消滅同然となり、日本の団体による初の世界ヘビー級王座は約2ヶ月という短命に終った。
1964年9月にAWA(アライアンス)を閉鎖し、米国からオーストラリアに渡ったジョニー・ドイルとジム・バーネットは、現地でワールド・チャンピオンシップ・レスリングを設立するが、『選手権管理団体』の名称はインターナショナル・レスリング・アライアンス(IWA)とした。主要選手として活躍していたのは大半が北米からで、10月に初代世界王者に認定されたのもキラー・コワルスキーだった。この王座の特徴は、1967年には判明しているだけでも13回と、毎年10回近くまたはそれ以上移動していたことだ。1969年8月NWAに加盟した後も1971年まで独自にIWA世界王座を認定し続けた。
ボストンでは、1964年11月にジャッキー・ファーゴが離脱して以来、同地区認定世界王座が空位になっていたが、それから約2年半後の1967年4月にトーナメントが開催され、決勝では同地区認定US王者フランク・スカルパがゴリラ・モーガンを破り優勝。だが1969年1月、心停止のためスカルパは他界、同王座も自然消滅となった。既にこの頃のボストン地区は1965年に進出してきたWWWFに押され気味で、1975年に閉鎖。
カナダのモントリオールでは、1957年の総会でNWAを脱退したエディ・クインが1959年に復帰したが、相変わらず独自の世界王座を認定していた。同王座は1961年11月、王者ハンス・シュミットを破ったジョニー・ルージョーが初の世界王座奪取。1962年7月にキラー・コワルスキーがルージョーを破り13度目の栄冠。1963年1月にはエドワード・カーペンティアがコワルスキーを破るが、ロサンゼルスを主戦場にしており、更には春頃からWWWFにも出場し始めたため、モントリオールでは殆ど試合をしなくなり、1964年王座は空位となった。同じく1964年には、エディ・クインが引退し、ルージョーがプロモーターとして同地区での興行を受け継ぐ。1965年9月には王座決定トーナメントが開催され、ハンス・シュミットがアート・トーマスを決勝で破り王座奪取。11月にルージョーがシュミットを破ると、王座は著しく移動し、1966年には復帰したカーペンティアを含む3人の間で少なくとも5回は移動した。1967年1月、マッドドッグ・バションがカーペンティアから王座を奪取すると、6月頃にはインターナショナル王座に改称。
1968年10月、ロサンゼルスWWAがNWAに加盟。ボボ・ブラジルはNWA世界王者ジン・キニスキーへの挑戦に専念するため12月11日付でWWA世界王座を封印。2人は1週間後の12月18日に対戦するが引き分けに終わった。以後同地区でもNWA世界王座が再び認定されることになる。そのキニスキーは1969年2月、フロリダ州タンパでドリー・ファンク・ジュニアに敗れ王座転落。4年3ヶ月に及ぶドリーの長期政権が始まる。
ここでヨーロッパにも触れておこう。
フランスでは、1961年12月の時点でラッキー・シモノビッチが認定されていたが、12月11日パリでジルベール・ボワニーに敗れる。ボワニーは途中で王座転落と奪回を繰り返した可能性もあるが、少なくとも1966年10月まで王座を保持、イタリアでも防衛した。

1960年の大半を世界王者として活躍し、1968年11月には国際プロレス参戦のため初来日。
その後フランスでは、1968年1月にフランツ・ファン・ブイテンが「カナダのモントリオール万博で開催されたトーナメントに優勝」という触れ込みで世界王者として登場。1月9日、パリでブイテンを破り世界王座を奪取したのは、デビュー3年目に入ろうとしていた22歳のジーン・フェレだった。後に世界で最も有名な選手の1人として活躍することになるアンドレ・ザ・ジャイアントの初栄冠だと思われる。
ドイツやオーストリアでは、選手権試合で移動する王座ではなく、相変わらずトーナメントが中心で定期的に開催されていた。中でもウィーンでは毎年開催され、その年によって世界選手権または欧州選手権と銘打たれていたが、1955年から1971年にかけてゲオルグ・ブレメンシュッツが9回優勝。そのうち少なくとも1959年、1960年、1965年、1971年の4回は世界ヘビー級選手権だった。主要選手の1人として活躍していたブレメンシュッツだが、実際には1970年代後半のオットー・ワンツの台頭までオーストリアを牛耳るプロモーターだった。
尚、イギリスでは世界王座には重点を置かず、1950年代のフランク・セクストンやルー・テーズのように、北米から元王者などが訪れる際に世界王者として試合を組む程度だった。1964年、前年ブルーノ・サンマルティノに敗れWWWF世界王座から転落したバディ・ロジャースをイギリスに招く計画もあったが、その遠征のための練習中に負傷し、復帰できる目途がつかなくなったため、中止となった。当時は世界王座より、欧州、大英帝国、英国王座が各階級で認定され、防衛戦も頻繁に行われていた。
1968年、北米との関係を絶たれた国際プロレスは、ヨーロッパに選手派遣のルートを求めることになる。春には欧州および英国ヘビー級二冠王者ビル・ロビンソンが初来日し、欧州王座を日本で防衛。そして12月、TWWAに替わる国際プロレスの主要王座としてインターナショナル・レスリング・アライアンス(IWA)世界ヘビー級王座が新設、11人参加リーグ戦決勝で豊登を破ったロビンソンが初代王者に認定された。翌1969年5月には、サンダー杉山がロビンソンから王座奪取。
同じく1969年、NWAに正式加盟した日本プロレスでは、11月にルー・テーズ以来初めて来日するNWA世界王者としてドリー・ファンク・ジュニアが参戦。12月2日にアントニオ猪木、3日にはジャイアント馬場を相手に連日60分時間切れ引き分け防衛を果たした。
1969年12月末の時点での世界王座は以下のとおり。
- NWA: ドリー・ファンク・ジュニア
- AWA: バーン・ガニア
- WWWF: ブルーノ・サンマルティノ
- WWA(インディアナ): ディック・ザ・ブルーザー
- IWA(国際プロレス): サンダー杉山
- IWA(オーストラリア): キング・カーティス・イヤウケア
- スペイン: ヘラクレス・コルテス
- フランス: 1969年3月の時点ではジーン・フェレ
ロサンゼルスWWAやボストン地区認定の世界王座の消滅、そしてモントリオール地区世界王座のインターナショナル王座への改称により、NWA、AWA、WWWFの3大世界王座時代に入った北米プロレス界だが、1970年代には新勢力を含む4団体が、揺れ動く日本のプロレス界にも大きな影響を及ぼすことになる。
資料元:
- Wrestling-Titles.com
- National Wrestling Alliance: The Untold Story of the Monopoly that Strangled Professional Wrestling
- Master of the Ring: The Biography of Buddy “Nature Boy” Rogers
- Plain Dealer (クリーブランド地元紙)
- The Gazette (モントリール地元紙)
- Paris-presse, L’Intransigeant (パリ地元紙)
