インターナショナル・ジュニアヘビー級選手権

近代王座起源シリーズ(10)

カテゴリー: 『puroresu』 , 近代王座起源シリーズ , NWA

プロレスの選手権は、その起源が不明なものが多い。だからこそ、「どう始まったか」よりも「どう続いたか」の方が重要だ。登場の仕方よりも、その王座を保持した選手や防衛戦の質によって、その価値が高められる。

1980年代前半、大仁田厚やマイティ井上らが保持したインターナショナル・ジュニアヘビー級選手権新日本プロレスから全日本プロレスに移ったことで知られる異例の王座だ。その起源については、まだ多くのファン達の間で記憶に強く残っていると思われるので、本来ならわざわざ自分が書く必要なんてないのかもしれないが、米国側からの観点も踏まえながら、あえて書いてみることにした。

自分のこれまでの調査の範囲内では、最初に『インターナショナル・ジュニアヘビー級選手権』なるものが登場したのは1938年秋頃。カリフォルニア州出身のピート・トライポーズという選手が、アルバータ州ブリティッシュ・コロンビア州といったカナダ西部およびワシントン州、そしてアイオワ州などで王者を名乗っていたが、おそらく王者という肩書で各地を転戦していた程度で、特にどこかの団体に正式に認定されていたものではないと思われる。1939年になるとアラバマ州北部で世界ジュニアヘビー級王者として活動していた。

1940年代に入ると、カナダ東部のケベック州モントリオールでポール・ロルティが認定されていた。1941年8月にジョン・マーフィーを破って奪取したとのことだが、当初は世界王者として認定されており、後にプロモーターによってはインターナショナル王者として認定されるようになった。東部だけではなく西部でも防衛することもあり、カナダの大半でインターナショナル王者として認識されていたようだ。1951年8月、10度目の王座在位中に初栄冠から10周年ということで記念大会が行われたという。モントリオールではあるが、この時点ではNWA会員のエディ・クインではなくレイ・モンターニュというプロモーターが認定していた。1953年4月、試合中の負傷が原因で39歳の若さで他界し、翌5月には兄弟のボブ・ロルティが王座を授与され、1960年頃までケベック州やオンタリオ州で王座を防衛した。

ポール・ロルティ
長年カナダで世界およびインターナショナル王者として活躍。イギリスでもBWAから世界王者に認定された。

また、1960年夏には短期間ながら、ウェストバージニア州でポール・デュガレがインターナショナル王者として認定されていたこともあった。数年後ピッツバーグに世界ジュニアヘビー級王者として登場しジョニー・ディファジオに敗れた、いわゆる遡及的な意味での初代WWWFジュニアヘビー級王者だ。

全日で防衛されていたのは、元々は新日にありがちのお手盛り王座として始まったもので、当然のことながら上記のいずれとも全く無関係。

日本版インターナショナル選手権について語る際、どうしても無視できないのがNWA世界ジュニアヘビー級選手権の存在だ。

1980年1月、新日本プロレスの新春黄金シリーズに、スティーブ・カーンがNWA世界ジュニアヘビー級王者として来日。だが2月には、オクラホマ州タルサでも王座決定トーナメントの決勝戦が行われ、ロン・スターがレス・ソントンを破っている。なぜこの様な事態になったのだろうか。

今尚NWAを追う(2) – 「NWA認定」』に詳しく書いたとおり、当時のNWA本部が正式に認定していたのはヘビー級、ジュニアヘビー級、ライトヘビー級の世界3王座のみで、このうちジュニアヘビー級はオクラホマ地区のレロイ・マクガークに管理が任されていた。

マクガークは元々タルサを拠点に、オクラホマ、アーカンソー、ルイジアナの各州およびミシシッピ州北部や、ミズーリ州南西部、ダラス周辺以外のテキサス州北部といった広域を傘下に収めていた。よく、マクガークが世界ジュニアヘビー級王座をローカル王座にしてしまったという意見を目にするが、地区全体の面積は日本よりも広く、人口も千数百万はいたはずで、ヨーロッパの一部の国々より大きかったのが事実。だが、1979年8月にマッチメーカーだったビル・ワットがマクガークと袂を分かち、ルイジアナとミシシッピの興行権を手に入れ、非NWA系のミッドサウス・レスリング・アソシエーション(MSWA、正式社名はミッドサウス・スポーツ)を発足。マクガークの勢力範囲は一挙に縮小してしまった。

当時の世界ジュニアヘビー級王者はネルソン・ロイヤルで、1978年11月頃からセミリタイア状態に入っていたが、翌1979年7月にカナダのアルバータ州でダイナマイト・キッドとテリー・ソイヤーを相手に王座を2度防衛している。その頃、日本の国際プロレスでは大剛鉄之助がブッカーとしてカナダから選手を招聘しており、その線からなのか、同年秋、国際プロレスはロイヤルの世界王座に阿修羅原を挑戦させることを発表。9月27日、NWA会員である全日本プロレスのジャイアント馬場と新日本プロレスの新間寿は、引退したはずのロイヤルは正式な王者ではないと連名で抗議するが、国際プロレスは10月5日、後楽園ホールで選手権試合を強行。結局これがロイヤル最後の防衛戦となり、約2週間後マクガークは、ロイヤル引退に伴い王座は空位とし、新王座決定トーナメントを開始する。 実はマクガークは9月前半にオクラホマ州タルサで新王座決定トーナメントを既に開始しており、結局ロイヤルによる国際プロレスでの防衛戦もNWAは認定しておらず、記者会見上で新間が発表した藤波辰巳(現・辰爾)を11月開催のトーナメントに送り込むというのも単なるリップサービスに過ぎなかったと思われる。(2023年5月2日訂正)

1979年9月10日 オクラホマ州タルサ
ジュニアヘビー級トーナメント: レス・ソントン対ドン・バス
※ おそらくこれがトーナメント初戦かと思われる。

一方、新日は、マクガークが王座を独占していることに不満を持つロサンゼルス地区のマイク・ラベール、フロリダ地区のエディ・グラハム、WWFのビンス・マクマホン・シニアらと協力して王座決定戦を開催。1979年12月10日、ロサンゼルスでスティーブ・カーンがチャボ・ゲレロを破り、新王者に認定された。

……ということになっているが、実際には新日が、多少グラハムの協力はあったものの、ラベールやマクマホンといった提携プロモーターらの名を借りただけで、ロサンゼルスで同王座が防衛されたことは殆どなく(あったとしてもおそらく1回だけ)、マクマホンについてはその王座の存在さえ把握していなかった可能性もある。

1979年12月前半のカーンとチャボの試合は以下のとおり (左側が勝者)。

  • 2日 カリフォルニア州ロサンゼルス
    チャボ・ゲレロ vs バッドニュース・コージ [アレン]
  • 5日 カリフォルニア州ロサンゼルス
    ビクター・リベラ & バッドニュース・コージ vs チャボ・ゲレロ & カルロス・マタ
  • 9日 フロリダ州オーランド
    スティーブ・カーン vs ミスター桜田
  • 10日 フロリダ州ウェストパームビーチ
    スティーブ・カーン (15分時間切れ) スーパー・デストロイヤー [スコット・アーウィン]
  • 11日 フロリダ州タンパ
    スーパー・デストロイヤー (16分) スティーブ・カーン
  • 12日 カリフォルニア州ロサンゼルス
    ツイン・デビルス & ビクター・リベラ & バッドニュース・コージ vs アル・マドリル & アーマンド・ゲレロ & チャボ・ゲレロ & カルロス・マタ
  • 14日 カリフォルニア州ロサンゼルス
    チャボ・ゲレロ vs バッドニュース・コージ

要するに当時カーンとチャボとの対戦はなく、王座決定戦というのも架空の試合だった。

12月10日はおろか、1979年は全体的にフロリダ以外でのカーンの試合記録は見つかっていない。また、当時のロサンゼルスは毎週水曜がオリンピック・オーディトリアムでの定期戦、日曜が同会場でのテレビ収録だったため、月曜だった12月10日は試合がなかった。いずれにせよ、当時ロサンゼルス地区で主要選手の1人だったチャボに、同地区でろくに試合をしたこともなく、その後も出場していないカーンが勝つというのは考え難い。

1986年1月31日 テキサス州ヒューストン
架空の王座決定戦から6年以上後に行われた、おそらく唯一かと思われるチャボ・ゲレロとスティーブ・カーンのシングルでの対戦。

あくまで自分の推測だが、世界王座を保持していたロイヤルがセミリタイアになっていた時期と、それを管理していたマクガークの勢力が低下したのが重なっていたのに目を付けて、新間は世界ジュニアヘビー級王座の認定を計画したが、国際プロレスがロイヤルに防衛戦を行わせようとしたので、馬場をそそのかし共同で抗議したのではないだろうか。そして、ロイヤルの防衛戦がきっかけで、早急にマクガークも新王座決定トーナメント開催に踏み切った可能性もある。

また、当時カーンの王座を世界選手権として認定していたのは、どうやら新日だけだったようだ。

実は12月18日、カーンはタンパでサージャント・ジャック・グレイ(レネ・グレイ)を破り同王座を初防衛したのだが、当日の同地の新聞にはカーンがカリフォルニア州サンディエゴで開催されたトーナメントに優勝してインターナショナル・ジュニアヘビー級選手権を獲得したとある。日時も決勝戦の相手も明確にされておらず、もちろん実際にサンディエゴでカーンが試合したという記録もない。カーンがフロリダで王者として試合をしていたのは、おそらくこの日のみで、日本のメディア向けに来日前に組まれた試合という可能性が高い。また、1980年2月1日に日本でカーンから王座を奪取した藤波辰巳(現・辰爾)が同月フロリダで試合することが既に12月の時点で決定していたというのもカーンが来日前に防衛していた理由かもしれない。いずれにせよ、藤波がフロリダで試合した際も、現地では世界ではなくインターナショナル選手権となっていた。また、同年夏には、当時マクガークの管理する(正当な)NWA世界王座を保持していたレス・ソントンがフロリダで何度も王座を防衛していることから、前述の「(グラハムらが)マクガークの王座管理権独占に不満を持っていた」というのも、ただの新日側の発表だったと思われる。

1980年2月のフロリダ地区の新聞広告には明確にインターナショナル選手権と表記されている。
左: 12日タンパ: ミスター藤波 vs スティーブ・カーン (リマッチ、藤波防衛)
右: 15日ハリウッド: ミスター藤波 vs マイク・グラハム (グラハム奪取)

その後、1980年11月にチャボ・ゲレロが木村健吾から王座を奪取した頃には、チャボは既に主戦場を新日と提携関係にあったロサンゼルス地区からヒューストン地区に移しつつあった。ヒューストンでは同王座を巡ってジノ・ヘルナンデスと抗争。その後も単発的にロサンゼルスで試合をすることがあったが、既にマイク・ラベールがコントロールできる状態ではなかったからか、1981年夏には王座を持ったまま全日に移籍。日本国内で王座が流出したという稀な例である。

尚、チャボが全日に参戦する前月、レス・ソントンが新日に参戦し7月3日に藤波と対決している。当初は藤波がソントンの保持するNWA世界王座に挑戦する予定だったという説もあるが、実際には藤波のWWFジュニアヘビー級王座の防衛戦で、結局NWA王座はかけられなかった。

1981年3月20日 テキサス州ヒューストン
インターナショナル・ジュニアヘビー級選手権: ジノ・ヘルナンデス[王者] vs チャボ・ゲレロ
※ 以前は5月22日に王座移動となっていたが、今回改めて調査したところ、当日ヒューストンの定期戦は中止になっており、実際の王座移動は3月20日だったということが判明。

1982年3月7日、ノースキャロライナ州シャーロットで大仁田厚がチャボを破り王座奪取。同日フロリダ州オーランドではソントンがマイク・グラハムを破り世界王座防衛。

世界王座を管理していたマクガークは、それまでMSWAのような団体名を特に使っていなかったが、1982年1月にはミッドウェスト・チャンピオンシップ・レスリングの名で低迷を続けていたオクラホマ地区の起死回生を図る。結局それも長続きせず、4月には1950年代から興行を続けてきた同地区を閉鎖し引退。オクラホマにもワットのMSWAが進出する結果となった。

管理者を失った世界ジュニアヘビー級王座を新間寿が見逃すはずがなく、翌5月には早速ソントンを再び新日に参戦させる。25日に静岡でタイガーマスク(佐山聡)がソントンを破り同王座を奪取したため、日本に2人のNWA世界ジュニアヘビー級王者が存在することとなった。一方、全日では7月末、大仁田とチャボの試合がダブルピンフォールに終わり、王座預かりとなる。

それから約1ヶ月後の8月末、プエルトリコのサンフアンでNWAの年次総会が開催された。全日は、総会でジュニアヘビー級王座が空位となり、全日で預かりになっていた王座は今後インターナショナル選手権として全日およびPWFに管理が任されたと主張。一方、新日のテレビ中継では、タイガーマスクが総会で改めて正式な世界王者に認定されたと反論。

同年11月、大仁田がチャボを破ると正式にインターナショナル王者に認定され、とりあえず世界ジュニアヘビー級王座に関する問題は落ち着いた。何はともあれ、アメリカのプロモーターの大半はジュニアヘビー級に対する関心が殆ど無かったはずで、日本での王座を巡る問題なんて、NWA本部にしてみれば実はどうでもいいことだったのではないかと思われる。

以後、世界王座は(ジム・クロケット・プロモーションが前座選手用に同名王座を別に認定したこともあったが)1985年8月にザ・コブラが返上するまで新日に定着し、インターナショナル王座は1986年3月にタイガーマスク(三沢光晴)がヘビー級転向のため返上するまで全日が管理することになる。


資料元:

  • Wrestling-Titles.com
  • The Gazette (モントリオール地元紙)
  • The News-Leader (ミズーリ州スプリングフィールド地元紙)
  • Tampa Tribune
  • The Palm Beach Post (フロリダ州ウェストパームビーチ地元紙)
  • The Los Angeles Times
  • Houston Chronicle

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