ダラス角力史 – 第拾六章

1980年代前半

カテゴリー: ダラス角力史

1980年1月時点での選手権保持者:

1970年代のダラス地区は、ブルーザー・ブロディの台頭、そしてフリッツ・フォン・エリックの息子達やジノ・ヘルナンデスらのデビューにより次世代のスター達が続出し、未来への期待が膨らんだかと思われたが、それも束の間、激動の1980年代を迎えようとしていた。

1979年12月30日、ミスター・ヒト & ミスター桜田 (ケンドー・ナガサキ)の日本人組がダラスに初登場。早くも年が明けた1月11日にはヒューストンでホセ・ロザリオ & タイガー・コンウェイ・ジュニアからアメリカン・タッグ王座を奪取した。5月11日にはダラスでなんとケリー・フォン・エリック & ブルーザー・ブロディを破り王座を防衛している。8月1日にヒューストンでケリー・フォン・エリック & エル・アルコンに敗れるまで同王座を保持した。

1980年5月にはジノ・ヘルナンデスがケビン・フォン・エリックを破りアメリカン・ヘビー級王座初栄冠。12月20日のケビンとの試合後王座預かりとなるが、28日の再戦では負傷したケビンの代わりに弟ケリーが出場、ヘルナンデスを破り見事王座奪取。

1981年1月にはヘラクレス・アヤラ & アリ・ムスタファが世界タッグ王者組としてダラス地区に登場するが、2月22日にはケビン・フォン・エリック & デビッド・フォン・エリックに王座を明け渡す。だが同王座は翌1982年後半には自然消滅し、同地区では相変わらずアメリカン王座がタッグでは主要だった。

同じく1981年1月には高千穂明久がセントルイス地区から転戦し『カブキ』としてダラス地区に登場。11日の初戦ではスポータトリアムでドン・ダイアモンドを破り、その後主にブルーザー・ブロディと抗争。3月22日、4月13日には立て続けにハーリー・レイスの保持するNWA世界ヘビー級王座に挑戦。9月25日にはルイジアナ州シュリーブポートでケリー・フォン・エリックからアメリカン・ヘビー級王座も奪取。1983年4月にミッドアトランティック地区に転戦するまでダラス地区に定着した。以降、残りの選手人生をグレート・カブキとして過ごし、顔面ペイントや口から噴出する『毒霧』は、後に続く日本人選手達の米国における活躍に大きな影響を及ぼすことになる。

1982年4月、ダラス地区プロモーターのジャック・アドキッソン (フリッツ・フォン・エリック)は新しく同地区のテレビ中継のプロデューサーに就任したミッキー・グラントと長年実況を務めていたビル・マーサーと共に、視聴率向上を狙った改革に踏み出る。ブランド名を、どこにでもあるような『ビッグ・タイム・レスリング』から『ワールドクラス・チャンピオンシップ』(WCCW)に変更し、それまで多くの地区のテレビ収録では1つしか使われていなかったテレビカメラを3つに増やし、選手紹介のためのプロモーションビデオを作成すなど、それまでにはなかった『演出』により人気が上昇し、後に全米だけではなくイスラエルや南米でもWCCWの中継が放送されるようになった。ダラスとフォートワース両方でテレビ中継が行われ、5月には主にフォートワースで防衛されるテレビ選手権も新設、王座決定バトルロイヤルで優勝したザ・スポイラーが初代王者に認定された。

6月4日、テキサス・スタジアムでフリッツ・フォン・エリックの引退興行が開催。この頃はまだ他地区や海外でのテレビ中継が始まってなく、ダラス地区の人気が急上昇する直前だったせいか、観客は6千人と会場の規模からすると必ずしも成功とは言えなかった。メインイベントではフリッツがキングコング・バンディからアメリカン・ヘビー級王座を奪取し、王者のまま引退。父の引退により3人の息子達が本格的にダラス地区の主要選手として活躍するようになる。

1982年6月4日 テキサス・スタジアム (アービング)
アメリカン・ヘビー級選手権: キングコング・バンディ [王者] vs フリッツ・フォン・エリック [引退試合]

10月になると、マイケル・ヘイズ、テリー・ゴーディ、バディ・ロバーツによるトリオ『ファビュラス・フリーバーズ』がジョージア地区から転戦。鉄の爪兄弟の助っ人的な存在として、ゲリー・ハート率いる悪役選手らと抗争を開始。12月25日にはダラスのリユニオン・アリーナ大会のセミファイナルで、雪のためダラス入りが不可能だったロバーツの代打でデビッド・フォン・エリックがヘイズとゴーディと組み、新設世界6人タッグ王座決定戦に出場し、見事王座を奪取。メインイベントでは金網デスマッチで、リック・フレアーの保持するNWA世界ヘビー級王座にケリー・フォン・エリックが挑戦。特別レフリーはマイケル・ヘイズという、ケリーに有利な条件だった。

だが試合中、反則の指摘があっても注意を聞かない両選手とヘイズの間に緊張感が高まっていく。ヘイズは業を煮やし既に(例によって)顔面血みどろのフレアーを攻撃し、ケリーにフォールするように促すが、「そんな形で勝つわけにはいかない」とばかりにケリーは拒否。リング内の全員がもみ合う中、ケリーの体が金網の外に出かけた瞬間、リング下にいたテリー・ゴーディが金網のドアをケリーの頭にぶつける。結局、フレアーがケリーをフォールし王座防衛し、鉄の爪一家とフリーバーズの間で米プロレス史に残る抗争が勃発した。

1982年12月25日 『クリスマス・スターウォーズ』 – リユニオン・アリーナ (ダラス)
セミファイナルは番組の冒頭、メインイベントは41分20秒目あたりから。

1983年2月、ジミー・ガービンが女性マネージャー、サンシャイン (実際にはガービンの従妹)と共にWCCW入り。3月4日にはデビッド・フォン・エリックを破りテキサス州ヘビー級王座を奪取、以降同地区では伝説となった2人の抗争が始まる。

同年4月には、後にガービンの宿敵として、エリック兄弟やフリーバーズと肩を並べる程の存在になるクリス・アダムスがWCCW参戦。アダムスは1981年1月にイギリスから渡米するとロサンゼルス地区に定着し、同地区と友好関係にあったメキシコUWA新日本プロレスにも参戦し、1982年5月以降は時折新日のシリーズに出場しながらもオレゴンの太平洋岸北西部地区を主戦場としていた。

1983年6月25日 『インターナショナル・スターウォーズ』 – リユニオン・アリーナ (ダラス)
ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、天龍源一郎も出場。
また、全日本プロレスの中継にファビュラス・フリーバーズが初登場したのもこの日。

11月24日、リユニオン・アリーナでフリッツ・フォン・エリックの五男マイクがデビュー。僅か4分15秒でスカンドル・アクバを破った。3人の兄達とは違い、体格や運動神経に恵まれていなかったことが、後に悲劇をもたらすことになる。

WCCWにとって最大の打撃は、やはり1984年2月のデビッド・フォン・エリックの死だろう。2月3日、スポータトリアムで王者マイケル・ヘイズを破りUNヘビー級王座を奪取。ヘイズは日本での報道によると1月28日にジョージア州アセンズでテッド・デビアスから同王座を奪取したということになっているが、ダラス現地では、日本で天龍源一郎から奪取したと発表されていた。そのUNヘビー級王座を引っ提げて全日本プロレスのエキサイト・シリーズ参戦のため来日を果たしたデビッドだが、シリーズ初日、東京のホテルの室内で死体で発見される。

リック・フレアーを破りNWA世界ヘビー級王座奪取が予定されていたという噂があったデビッドは、兄弟の中では雰囲気的にも父フリッツに最も似ており、兄ケビンや弟ケリーと違い悪役もこなすことができ、3人の中では最も世界王者として各地を巡業するのに相応しいと言われていたようだ。

更にデビッドには業界におけるビジネスセンスもあったとされ、フリッツが何等かの判断に迷うと、デビッドかゲリー・ハートに相談していたという。ダラス地区にフリーバーズやジミー・ガービン、スコットとビルのアーウィン兄弟、そしてジノ・ヘルナンデスらを参戦させたのもブッカーとしてのデビッドで、1983年のNWA年次総会においては父フリッツではなくデビッドが理事に就任していたことから、選手としてのみならず裏方としての手腕も見せつつあったと思われる。だとすると、ダラス地区の主要選手としてだけではなく、フリッツの後を継ぎ次世代WCCWを率いるはずだったのもデビッドなのだろう。

1984年2月3日 スポータトリアム
デビッド・フォン・エリック vs テリー・ゴーディ
※ ダラスからの中継におけるデビッド最後の試合。試合後、実況のビル・マーサーがデビッドの他界を発表。

5月6日にはテキサス・スタジアムに32,000人の観衆を集め、デビッド追悼大会が開催された。引退していたフリッツは一時復帰しケビンとマイクと組み、ファビュラス・フリーバーズから世界6人タッグ王座を奪取し、後に王座の権利をケリーに譲る。そのケリーはメインイベントでリック・フレアーを破り世界ヘビー級王座を奪取した。僅か18日後、フレアーは横須賀でケリーから王座を奪回。2021年12月、リック・フレアーは自身のポッドキャストで、ケリーが3週間以内で王座を明け渡したのは、「ケリーは本来長期政権を築く予定だったにも関わらず、どこか忘れたが、最初の防衛戦をすっぽかしたため、シンガポールや香港に遠征していた俺とハーリー・レイスが日本に向かい、ケリーから奪回するようにNWAから要請された。」と発言しているが、横須賀での試合直前にはフレアーとレイスも米国で試合をしており、おそらくフレアーとレイスの間で『幻の王座移動』があった同年3月のニュージーランドおよび東南アジア遠征と混同しているのではないかと思われる。

実際には、フリッツ・フォン・エリックはフレアーの王座奪回について、なるべくテキサスから離れた場所にしてほしいという要望をNWAに出したという説があり、横須賀での試合のレフリーがジョー樋口であったにも関わらず、地元ダラスでは、「日本のプロモーターが、プロレスのことをよく知らない相撲のレフリーを起用した。」という、当時のテキサスだからこそ通用したのかもしれないような言い訳をしている。いずれにせよ、NWA世界王者としてのケリーが各地を巡業しデビッドを失った直後のWCCWを長期間留守にするとは考え難い。

またデビッド追悼大会では、6人タッグ戦終了後にキラー・カーンが乱入し、フリッツを攻撃。フリーバーズとの共闘が予想されたカーンだが、間もなくスカンドル・アクバ率いる『デバステーションInc.』に加入。「カーンをフリーバーズから盗んでいった」とし、フリーバーズとデバステーションInc.の悪役同士、主にカーンとゴーディとの間での抗争が勃発した。だがこの頃既にWWFが全米侵攻を開始しており、人気向上のために『ロックン・レスリング』としてシンディ・ローパーなどプロレス以外の有名人を起用していた。正にその流れに合っていたのか、フリーバーズも8月末にWWF入り。だが結局1ヶ月も続かず、全日本プロレスの『ジャイアント・シリーズ』に参戦した後フロリダ地区に転戦。

1984年9月28日スポータトリアムでケビン・フォン・エリックは、当時鉄の爪兄弟以外では最も人気のあったクリス・アダムスと組み、ジノ・ヘルナンデス & ジェーク・ロバーツと対戦。だがケビンとアダムスが仲間割れをし、そのままアダムスがリングを後にし、取り残されたケビンが敗れる羽目となった。以降アダムスはヘルナンデスやロバーツと共闘し始めるが、ヘルナンデスとは後に『ダイナミック・デュオ』としてフリーバーズに代わる同地区の悪役チームに君臨し、鉄の爪兄弟と抗争を繰り広げることになる。

その後も約2年間は人気を保つWCCWだったが、デビッドの急死から完全に回復することはなかった。

1984年12月末時点での選手権保持者:


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