ダラス角力史 – 第拾八章

1990年代前半

カテゴリー: ダラス角力史

1990年1月時点でのUSWA選手権保持者:

1989年夏、新プロモーターのジェリー・ジャレットの指揮の下、長年テキサスのプロレス界で親しまれてきたワールドクラス・チャンピオンシップ・レスリング(WCCW)の看板が外され、ユナイテッド・ステーツ・レスリング・アソシエーション(USWA)に改称、更には新ブッカーとしてエリック・エンブリーを迎え入れたダラス地区。ケビン・フォン・エリックとケリー・フォン・エリックの鉄の爪兄弟やクリス・アダムスといった長年同地区で活躍してきた選手達がメンフィス地区の常連選手達に主役の座を譲りかける状態にはなったものの、動員数は上昇し、一度は失いかけていたスポータトリアムでの興行やテレビ中継も取り戻し、借金も間もなく払い終えたという。

そもそもWCCWの名称は、ジャレットが使わなくなったのではなく、ケビンとケリーのアドキッソン兄弟から団体買収の際に法的な行き違いがあり、ジャレットがケビンに告訴されていたので名称が使えなくなったというのが理由だという。買収後の興行収入を巡る法的な争いが続いているにも関わらず、鉄の爪兄弟はUSWAの大会に引き続き出場。

当時のUSWAの週例興行は大体以下のとおりだったと記憶している。

日: フェスティバルなど小規模のイベント(不定期)
月: テネシー州メンフィス
火: ケンタッキー州ルイビル
水: インディアナ州エバンスビル
木: 試合なし?
金: ダラス
土: 朝、ダラスでは同日夜放送分のテレビ収録、テネシー州メンフィスではテレビスタジオから生中継。夜は同州ナッシュビルまたはアーカンソー州ジョーンズボロ。

全米の大半がWWFWCWに乗っ取られている中、地域制時代から継続してこれだけの興行をこなしていたのは特筆すべき点だろう。

またフォートワースでは1990年に入るとキラー・ブルックスがノース・アメリカン・レスリング・アライアンス(NAWA)を旗揚げ。毎週月曜はフォートワースのステージコーチ・ボールルーム、火曜にはダラスのロングホーン・ボールルームでの興行、更にはテレビ中継も行い、多少で隆盛を見せるかのように思えたが、1991年末閉鎖。

実はこの頃、ダラス地区で最も話題になっていたのは、NAWAの旗揚げでもなく、ジェリー・ローラーらのメンフィス組や、鉄の爪兄弟やアイスマン・キング・パーソンズのダラス組による活躍でもなかった。

1980年代の大半をダラス地区で過ごしたクリス・アダムスはWCCWがUSWAに改称した頃スポータトリアムでプロレス学校を開校。その生徒の中には北テキサス大のフットボール選手として活躍していたテキサス出身のスティーブ・ウィリアムスがいた。

ウィリアムスは1989年9月30日にスポータトリアムでデビュー。だが既にアメリカと日本で活躍していた同名の選手がいたため、USWAのメンフィス側では12月、同地のブッカーだったダッチ・マンテルによる提案で『スティーブ・オースティン』としてデビュー。

年が明けた1990年1月、ダラス側でも同じ頃にオースティンという名を使い始め、「お前の名はスティーブ・ウィリアムスじゃないか。」と指摘する師匠アダムスに対して反旗を翻す。

間もなくオースティンは、マネージャーとしてアダムスの『元妻』ジニー・クラークと結託 (アダムスとの間に娘はいたが実際には籍を入れてはいなかった)。それに対抗するかのようにアダムスは当時の妻トニーを引き連れ、両カップルによる抗争が勃発。ジニーが昔アダムスと一緒に撮った写真を持ち出してトニーを挑発するなど、世界最大のプロレス団体WWFがマンガのようなキャラクターで目白押しの中、両カップルによる『大人向け』の抗争は一般誌にも取り挙げられる程激化した。

1990年7月20日 スポータトリアム
クリス・アダムス & トニー・アダムス vs スティーブ・オースティン & ジニー・クラーク

また1990年6月30日には、鉄の爪兄弟の末っ子クリス・フォン・エリックがデビュー。だが165cmに79kgと、兄達とは違い体格に恵まれなかったクリスの対戦相手は、悪役マネージャーのパーシー・プリングル三世(後のポール・ベアラー)だった。以後、USWAでクリスが出場する試合は兄ケビンやクリス・アダムスらと組んでのタッグ戦が中心だった。

クリス・フォン・エリックのデビュー間もなく事件は起きた。同地区のトップスターであるケリー・フォン・エリックがWWFに移籍したのだ。

ケリーは14日スポータトリアムでエンジェル・オブ・デスに敗れテキサス州ヘビー級王座から転落。16日にもフォートワースから西へ約144km離れたグラハムという町でマット・ボーンとの試合が予定されていた。だが当日は、ネブラスカ州オマハで開催されたWWFのテレビ収録に出場し、『ザ・テキサス・トルネード』のリングネームでアイアン・マイク・シャープ(ジュニア)と対戦、移籍後のデビューを勝利で飾った。8月27日にはペンシルバニア州フィラデルフィア大会でミスター・パーフェクト(カート・ヘニング)を破り、初PPV参戦でインターコンチネンタル王座を奪取するという快挙を成し遂げた。11月29日には、WWF入団後初めてダラスに登場、リユニオン・アリーナでパーフェクトを破り同王座を防衛。

1991年2月11日、WWFのリユニオン・アリーナ大会では、フリッツがケリーのセコンドに。

その間もジェリー・ジャレットとケビン・フォン・エリックとの間で法的な争いは続き、1990年9月、とうとうUSWAがダラスから撤退してしまった。9月7日の夜、そして翌朝のテレビ収録はUSWA名義で開催され、番組中も翌週14日の試合の宣伝がされたが放送されることはなかった。

9月14日以降のスポータトリアム大会はケビンが再びWCCWとして決行。テレビは打ち切られたが、予定だった選手の大半は継続して出場した。ゲリー・ヤング & カクタス・ジャック (ミック・フォーリー)と対戦予定だったジェフ・ジャレット & キマラの代役としてケビン & ボツワナ・ビースト (キマラ2号)が出場。クリス・アダムス夫婦とスティーブ・オースティン & ジニー・クラークの抗争も続いたが、テレビがなくては自然消滅も同然だった。長年続いた土曜夜のダラス地区のプロレス中継は、USWAのナッシュビル大会か何かが放送されていたと記憶する。

ケビンが毎週金曜のスポータトリアム大会を続けていく中、長年同地区で悪役マネージャーとして活躍したゲリー・ハートが別会場メトロプレックス・アリーナでテキサス・レスリング・フェデレーション(TWF)を旗揚げ。土曜や日曜の興行だったため、金曜のWCCWと競合することもなく、一部の選手達は両団体に出場することができた。また、TWFはテレビ中継も始め、それまでスポータトリアムでお馴染みだった選手達が別会場からの中継に出場することになり、更にはアブドーラ・ザ・ブッチャー、テリー・ゴーディ、ドラゴン・マスター(ケンドー・ナガサキ)らも登場した。

TWFの中継は、長年ダラス地区の実況を務めたビル・マーサーが担当。
スティーブ・オースティンやアイスマン・パーソンズらUSWAおよびWCCW勢も出場。

1990年11月23日WCCWのスポータトリアム大会ではメインイベントでケビン・フォン・エリックがエンジェル・オブ・デスを破りテキサス州ヘビー級王座奪取。だが、さすがにテレビ中継なしでの団体存続には無理があったのか、これが同会場でのWCCW最後の興行となり、1966年から続いた鉄の爪王国に終止符を打つ結果となった。以後ケビンは、時にはクリス・アダムスとの共催でWCCWの名でダラス周辺やオクラホマ州南部での不定期なスポットショーを1994年頃まで続けていくことになる。

WCCWがスポータトリアムから撤退した翌月、早速ジェリー・ジャレットがUSWAの興行を再開。12月28日に開催された復帰第一戦のメインイベントではジェリー・ローラーが統一世界ヘビー級王者テリー・ファンクに反則勝ち。

この頃、更に米プロレス界を揺るがしそうな出来事が起きようとしていた。

フリッツ・フォン・エリックの時代から、各テレビ局への試合中継の番組販売はマックス・アンドリュースという人物が担当していた。一方ジョージア州では、1986年からジョー・ペディシーノが『スーパースターズ・オブ・レスリング』という、プエルトリコを含むNWA加盟各地区や日本からの放送をダイジェストで放送するという画期的な番組を放送していた。

1989年、ペディシーノはジョージア・オールスター・レスリングを旗揚げ。更に翌1990年末ペディシーノはマックス・アンドリュースと共に、ナイジェリアの投資家オル・オリアミを資金支援者として、メンフィスとダラス両地区を含むUSWAの買収を計画する。USWAが『世界最大のプロレス団体』グローバル・レスリング・フェデレーション(GWF)の傘下となり、GWF北米支部として活動するという流れになる予定だった。事実、12月28日に開催されたUSWAのスポータトリアム復帰大会は、実はGWF名義でテレビ収録され、実際にUSWAのテレビ中継の中でもオリアミがGWF会長として紹介された。

だが交渉は決裂し、ジェリー・ジャレットは1991年になっても引き続きUSWAとしてスポータトリアム大会を続けていくことになる。1月25日には空位となっていたテキサス州ヘビー級王座決定トーナメントが開催され、決勝でビル・ダンディがゲリー・ハートを破った。

最終的にはジャレットがダラス地区の興行権のみ売却することに同意。5月17日がUSWAの最後のスポータトリアム大会となり、以後USWAの番組でGWFにふれることはなくなった。

一方、ゲリー・ハートのTWFも1991年5月に閉鎖。時を同じくしてスティーブ・オースティンはWCWに入団。後にWWEでプロレス史にその名を刻む程の存在となる。

ペディシーノとアンドリュースはGWF旗揚げ戦を6月28日に開催。ESPNで月曜から金曜まで毎日一時間の番組が放送されることも決定し、スポータトリアムには収録のためダラスの常連組以外にも各地から選手達が集められた。ライトニング・キッド (Xーパック)、ジェリー・リン、ハンサム・ストレンジャー(マーカス・バグウェル)、ルイ・スピコリらの新鋭がESPNを通して全米に披露されることになる。GWFの主要王座は北米ヘビー級選手権で、他にもライトヘビー級タッグテレビ王座がそれぞれ認定された。

同じく1991年の9月12日、呪われたと言われる鉄の爪一家に再び悲劇が訪れた。

鉄の爪兄弟の末っ子クリス・フォン・エリックは、体格に恵まれないだけではなく、持病の喘息、そしてプレドニゾンの副作用により骨がもろく、試合での負傷や骨折が続いていた。当日、テキサス州エドムの自宅の農場付近でクリスは母ドリスと兄ケビンと話した後、ピストル自殺により他界。その後父フリッツとドリスは別居生活を始め、1992年7月に正式離婚。

1991年8月22日 テキサス州マンスフィールド
クリス・フォン・エリックの最後のプロレス会場での写真だと思われる。

一方、華々しく旗揚げしたGWFだったが、毎週5時間分のテレビ番組作成というのは、ローカル団体にとっては非常に重荷だった。少しずつ小規模になり、結局ダラスのローカル団体にESPNが付いている程度のものとなり、テレビの視聴率こそ悪くはなかったものの、間もなく観客動員数も低下していった。これについては、1991年のWWFのステロイド疑惑が米プロレス界全体に影響を及ぼしたという説もあるが定かではない。

1992年4月17日にはスポータトリアムにエボニー・エクスプレス (ブッカー・T & スティービー・レイ)が初登場。だがその翌週24日の大会を最後に、資金難のためマックス・アンドリュースが共同経営者のジョー・ペディシーノとブッカーだったエディ・ギルバーとを解雇。その後、鉄の爪一家の弁護士だったグレイ・ピアーソンとロバート・キーラーがGWFを買収した。以降、アイスマン・パーソンズやスティーブ・シンプソンなど、しばらくGWFを留守にしていたダラス組が少しずつ復帰していった。

同じく1992年には、ビッグ・Dの名で覆面選手として活躍していたゲリー・スターデバントが、ダラスのロケット・フィエスタ・パレスでビッグD・プロレスリングを旗揚げ。日曜の開催だったため、ダラス地区在住のGWFの選手らも出場していた。だが300人以上観客が集まることはほぼなかったと言われ、1994年の春頃から興行も不定期になり、9月2日にテキサス州ランカスターのホリデー・イン内のボールルームで開催された試合には38人しか集まらなかったという。1995年に入ると間もなく閉鎖。

1992年9月5日には、GWFの協力でWCWが最初で最後のスポータトリアム大会を開催。自分もその場にいたので、詳細はこちらを。

10月9日のGWFスポータトリアム大会ではジョン・ホーク (JBL)が初登場。同地区のベテラン、ブラック・バートに勝利した。

11月27日には8月にWWFを離脱したケリー・フォン・エリックがスポータトリアムに復帰。ブラック・バートと両者リングアウトで引き分けた。年が明けた1993年1月15日にはGWF初登場のクリス・アダムスと組み、反則ながらバート & ジョニー・マンテルに勝利した。

だが約1ヶ月後の2月18日、ケリーが自殺。4月2日にGWFが開催したケリー追悼興行が、兄ケビン・フォン・エリック唯一の同団体参戦となった。

1993年6月にはエボニー・エクスプレスがハーレム・ヒートとしてWCWに移籍。

9月3日、後にダラス地区の主要選手の1人となり、更にはWWFでも活躍することになるモアディブことトニー・ノリスがスポータトリアムに初登場。

1994年4月にはテリー・ゴーディとジミー・ガービンがGWFでファビュラス・フリーバーズ再結成。間もなく1月にWCWを離脱したマイケル・ヘイズも合流した。

8月26日、スポータトリアムに新日本プロレスから海外武者修行中の西村修が登場。GWFライトヘビー級王座を奪取したが、西村の同団体参戦はこれっきりだった。

結局9月2日のスポータトリアム大会がGWF最後のテレビ収録となった。9日、16日にも同会場で試合は行われたが、23日の大会は発表はされたものの、開催されることなくGWFは閉鎖。

グレイ・ピアーソンが受け継いでからのGWFの大きな問題点として、テレビ収録のために『スポンサーの厚意』もあって大勢の観客を無料で入れたことが挙げられる。1,000人以上、時には2,000人集まることもあったようだが、実際に金を払って入場していたのは100人程度だったという。自分もその入場料を払ってほぼ毎週最前列で悪質な野次を飛ばす1人だったりするのだが…。その頃のことについては、このブログの『テキサスの思い出』シリーズを読んでいただければと思う。

GWF閉鎖から約1ヶ月後の10月29日、元NWA会長ジム・クロケット・ジュニアが再びNWAの名で旗揚げ。クリス・アダムス、マイケル・ヘイズ、トニー・ノリス、スコット・プトスキーらダラス勢に加え、タリー・ブランチャードやジャンクヤード・ドッグら大物選手も参戦した。

NWAといえば、11月19日ニュージャージー州チェリーヒルで、空位となっていた世界ヘビー級王座決定トーナメントが開催され、クリス・キャンディードが優勝したのだが、クロケットはこれに賛成しなかったため、後にダン・スバーンがキャンディードから同王座を奪取してからも、クロケットによる興行で同王座の防衛戦が行われることはなく、あくまでダラスの主要選手権はグレッグ・バレンタインが保持する北米ヘビー級王座だった。それもあって、時折父ジョニーも会場に姿を現すこともあった。

同じく11月19日からはディック・マードック、翌週26日からはケビン・フォン・エリックもクロケットの興行に参戦。

業界の大物プロモーターによる指揮の下、テレビ中継もあり、大物選手の参戦が続く『NWA』だったが、決して業績は良くなかったようだ。

1994年12月末時点でのNWA選手権保持者:


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