『魔術師の残骸』でも書いたとおり、1956年の独占禁止法の同意判決、1957年のエドワード・カーペンティアを取り巻く世界王座疑惑により、ナショナル・レスリング・アソシエーション(NWA)は大きな打撃を受け、1960年代に入ってもその影響は及んだ。
1940年代後半から各地区でメキメキと頭角を現してきたバディ・ロジャースは、1960年4月、トゥーツ・モントとビンス・マクマホン・シニアのニューヨークとワシントンDCを拠点にしたキャピタル・レスリングからUSヘビー級王者に認定される。
ロジャースは北東部だけでなく、シカゴを含む各地で大活躍し、『次期世界王者候補』としての地位を築き上げていく。
当時の世界ヘビー級王者はパット・オコーナーだったが、ガニアもまた、世界王者候補として人気を保っていた。1959年、ガニアはウォーリー・カルボと共に、デニス・ステッカーからミネアポリス地区の興行権を買い取り、翌年5月にはアメリカン・レスリング・アソシエーション(AWA)を発足。新興AWAは、オコーナーが「ガニアの挑戦を受けなかった」という理由で8月1日、ガニアを正式にAWA世界ヘビー級王者に認定した。以後、何度か転落と奪回を繰り返したが、1963年9月7日、ネブラスカ州オマハでフリッツ・フォン・エリックを破り、同地区認定世界王座も統一する。
オコーナーは引き続きNWAから認定されるが、1961年6月30日、シカゴでロジャースに敗れ、NWA世界ヘビー級王座から転落する。同年8月にはシカゴ地区プロモーターのフレッド・コーラーがNWA会長に就任。
だがモントとマクマホン、そしてコーラーは世界王者としてのロジャースをほぼ独占し、世界王座の防衛戦もシカゴと北東部、そしてその間に挟まれたオハイオ地区が中心となり、ルー・テーズは勿論、ディック・ハットンやオコーナーのようなそれまでの世界王者達と比べ、他地区での防衛戦の頻度が著しく下がり、場合によっては、予定されていた試合も、ロジャースの『負傷』を理由に中止になったこともあった。それによって、各地でも独自で世界王座を認定するNWA会員が増えてきた。
ジョージア地区は1957年にNWAを離脱したが、1962年には、ロサンゼルスからWWA世界王者としてフレッド・ブラッシーを招き、10月にジェイク・スミスが王座を奪取、1963年のNWA再加盟まで独自の世界王座を認定。
カルガリーでは1962年、キラー・コワルスキーをノース・アメリカン・レスリング・アソシエーション(NAWA)世界王者として認定。同王座は、1965年1月頃から1966年1月にNWA世界王座を奪取するまでジン・キニスキーが保持。
1962年にはニューメキシコでも、「マニラで力道山から奪取した」としてムース・ショラックをワールド・レスリング・アソシエーション(WWA)世界王者として認定。同王座は、1965年1月、NWA王者テーズが当時のWWA王者ドリー・ファンク・ジュニアを破り統一。
1962年11月、モントリールでロジャースがキラー・コワルスキーと対戦するが一本目で負傷したため棄権。NWAは王座移動を認めなかったが、テキサスなど一部の地区ではコワルスキーを認定。1963年1月21日、ニューヨークでロジャースがコワルスキーを破るが、コワルスキーは王座はかけられていなかったと主張。同年2月1日、ヒューストンでテーズもコワルスキーを破る。
また、セントラルステーツ地区(カンザス、ミズーリ、アイオワ)では、AWA世界王者を招いて選手権試合を行うこともあった。
それらのNWA加盟地区における世界王座の殆どは1963年1月にテーズがロジャースから王座奪回した後にNWAに統一され、少なくともNWA内部での王座乱立については解決されたが、ロジャースを引き続き世界王者として独占したかったキャピタル・レスリングは、NWAから脱退、新しくワールドワイド・レスリング・フェデレーション(WWWF)の名で改めてロジャースを世界王者に認定した。
WWWF発足直後には、ニューヨーク周辺において、アントニーノ・ロッカとジム・クロケット・シニア(キャロライナ地区)が対抗勢力を旗揚げしたが短命に終わった。また、1969年には、NWAに加盟したロサンゼルス地区のWWAに対抗し、バーン・ガニアが興行戦争を仕掛けたが、これも失敗におわった。だが、それら以外ではAWAやWWWFがNWAと衝突したことはほぼ無だった。
その裏には、独禁法違反対策としてNWAが『ライバル団体』を黙認していたという事実があり、対抗していたどころか、ガニアやカルボ、マクマホンらは引き続きNWA年次総会に出席していた。結局、1971年、マクマホンはNWAに再加盟し、ガニアは1982年、サム・マソニック引退後のセントルイスの興行を、ボブ・ガイゲルやハーリー・レイス、パット・オコーナーと共に引き継ぎ、AWAを運営し続けながらもNWAのプロモーターとして名を連ねた。
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