幻の世界王座統一戦

リング外でも鉄人は譲らず。

カテゴリー: 世界ヘビー級選手権 , NWA , ニューヨーク , WWE・WWF・WWWF

1963年1月、米国北東部を牛耳っていたキャピタル・レスリング・コーポレーションは、NWA世界ヘビー級王者バディ・ロジャースをほぼ独占していた。トゥーツ・モントと共にキャピタルを経営していたビンス・マクマホン・シニアは、前年のNWA年次総会以来第2副会長だったが、会長だったカール・サーポリスのアマリロ地区では、ロジャースによる防衛戦が全く行われていなかったという始末。当然NWA会員達の不満は高まり、ロジャースを王座から引きずりおろすのを望む声が増えていった。

そんな中、1月24日、トロントでロジャースとルー・テーズの試合が組まれる。

当時のNWA世界ヘビー級王者は、王座を奪取する際に、2万5千ドルをデポジットとしてNWAに預けるという義務があり、王座から転落する時に払い戻してもらうという仕組みだった。それまで幾度かにおよび『負傷』などを理由に防衛戦をキャンセルしてきたロジャースも、この日はサム・マソニックNWA会長から、「この指定試合に出ないとデポジットをチャリティに寄付する。」との忠告を受け、出場を決断した。またマソニックは、途中でロジャースが何等かの口実を作って試合を放棄しないために、3本勝負ではなく1本勝負にした。結果、テーズが王座を奪回。尚、試合前のレフリーとの打ち合わせの際、挑戦者のテーズが、「今日の試合は、楽な方法か辛い方法のどちらかにしよう。」とロジャースを脅したという説があるが、どうやら事実ではないらしい。

マクマホンとモントは、トロントでの試合が1本勝負だったということを理由として王座移動を認めず、引き続きロジャースを王者に認定したが、2月7日、同じくトロントでの3本勝負でテーズがロジャースを破り王座を防衛したことから、翌月、「リオデジャネイロでのトーナメントに優勝した」とし、新しくワールドワイド・レスリング・フェデレーション(WWWF)の名で改めてロジャースを世界王者に認定した。

マソニックは、WWWFが次期王者にデビューから4年しか経っていないブルーノ・サンマルティノを仕立てようとしていたのを聞きつけ、即トロントのフランク・タニーに依頼し、同地でのテーズとサンマルティノのNWA選手権試合を組んだ。3月14日、テーズは24分44秒でサンマルティノの挑戦を退ける。テーズに負けて間もない2ヶ月後の5月17日、サンマルティノはロジャースからWWWF世界王座を奪取、7年8ヶ月におよぶ長期政権が始まる。

ちなみに、同年8月のNWA総会で、マクマホンの後任としてジム・クロケット・シニア(キャロライナ地区)が第2副会長に就任した。つまり、マクマホンはWWWFを『発足』してからの数ヶ月間、引き続きNWAでも役職に就いていたということになる。その後もマクマホンはNWAの総会に出席し続けた。

2年後の1965年、マクマホンとモントは、マソニックとテーズに、ある商談を持ちかけた。双方と友好関係を保っていたタニーを立会人とし、シカゴのモリソンホテルのスイートルームで5人は会った。

テーズとサンマルティノの間で、NWAとWWWFの世界王座統一戦をニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行おうという提案だった。全米でクローズドサーキット中継をすれば100万ドルの収益が見込まれ、その上ガーデンの入場料も普段より高くすれば更に20万ドルは稼げそうだという。WWWFから前金としてテーズとマソニックにそれぞれ2万5千ドルを支払い、当日はサンマルティノが勝ち、何度も再戦を繰り返して、更に儲けた後、翌年テーズが王座を奪回するという案だった。

だが、テーズはWWWFの2人のことを全く信用していなかった。2人が再戦の話を放棄し、そのままNWA王座を再び独占するという思惑を察したのだ。また、これだけ大きな話であるにも関わらず、テーズにとってはNWA王座を2週間も防衛すれば稼げていた2万5千ドルで話を片付けられようとしていたことに、侮辱さえも感じていた。

当時のNWAでは、世界ヘビー級王者が出場する際、その興行収益の10パーセントが世界王者に支払われるという規約だったが、テーズは、WWWF側がクローズドサーキットで見込まれると主張した100万ドルの10パーセントの10万ドル、および試合会場となるガーデンでの収益の10パーセントを前金として要求した。また、長年の業界での功績を称えるという意味で、エド・ストラングラー・ルイスに収益の3パーセントを支払うことも条件とした。

マクマホンは、「そこまで多額な金を支払う必要はない。我々はお互いの信用に基づいてビジネスをするべきだ。」と言った。すかさずテーズも、「俺の条件は伝えた。」とかえした。

そこでモントは、2人きりで話すため、テーズをトイレに誘い、自腹を切って更に2万5千ドル出すので、話を引き受けるよう説得しようとした。

遡ること30年、若手時代の1936年春、テーズは中西部からテネシー州を経て、ロサンゼルスに転戦した。当時のプロモーターはルー・ダロー、ブッカーがモントだった。テーズは、選手達が1日10ドル程度しかもらっていなかったのに、ブッカーとして毎週約5千ドルもポケットに押し込んでいたモントの『ピンハネ』を忘れていなかった。

テーズはモントに、「今朝飲んでるコーヒーの代金を払う気さえない奴が何を言ってんだ。その2万5千ドルっての、硬めの小切手でも書いて(ケツにでも)ぶち込んどけ。お前とあのもう1人の泥棒野郎が12万5千ドル用意できないなら、この話は無しだ。」と言って、トイレを去り、スイートルームに戻って行った。

一儲けできると同時にWWWFを再びNWA傘下におけるという状況を想定し、話にほぼ同意しかけていたマソニックは、テーズが憤慨してトイレから戻ってきたことを察し、テーズと2人きりになり言った。「NWA会長として、防衛戦への出場を命令する権利がある。」

それに対してテーズは、「命令なら出場するが、試合には勝つ。」と返答。あくまで負けるのを拒否し、統一戦に出場するのであれば、自ら王座統一する前提で、サンマルティノに対して『仕掛ける』ということを主張した。いくら50代に突入しかけていたとはいえ、1932年のデビュー以来、ルイスだけではなくジョージ・トラゴスやアド・サンテルといった伝説のシューター達に鍛えられ、世界中で王座を防衛してきた百戦錬磨のテーズにしてみれば、ニューヨークでの主役の座を不動のものとしていたところで、所詮ボディビルダーから転向して数年しかたっていないサンマルティノに負ける気は全くなかったのだ。

当然の結果として、WWWFが企んでいた統一戦の話はなくなった。冒頭の雑誌の表紙の様な試合は、もちろん実現していない。

マソニックは、テーズが既にNWAの管理できる王者ではないことを(改めて)実感、これまで何度も『波』があった2人の関係も再び悪化し、同年の年次総会で他の会員達からもテーズは世界王座を返上するべきだという声が上がった。だが、テーズは返上ではなく、後任としてジン・キニスキーを推薦。翌1966年1月、テーズはセントルイスでキニスキーに世界王座を明け渡し、1949年以来3度奪取したNWA世界王座に最後の別れを告げることになる。

尚、サンマルティノは後年、「仮に統一戦の話が実現していたとしても、過密なスケジュールを求められるNWA世界王者になることには興味を持たなかっただろう。」というコメントを残している。


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