NWA、AWA、WWFの3大団体が牛耳った1970年代の米プロレス界。他にも小規模団体が存在したが、大半はその3団体のいずれかと提携していた。
1980年1月の時点での世界王座は以下のとおり。
- NWA: ハーリー・レイス
- AWA: ニック・ボックウィンクル
- WWF: ボブ・バックランド
- WWA(インディアナ): キング・コング・ブロディ
- CWA(テネシー): ジェリー・ローラー
- UWA(メキシコ): カネック
- IWA(国際プロレス): ラッシャー木村
- CWA(オーストリア、西ドイツ): オットー・ワンツ
- ジョイント・プロモーションズ(イギリス): ウェイン・ブリッジ
- ギリシャ: イワン・ボリエンコフ
この時点ではWWFがNWA傘下だったため、ニューヨークのマディソン・スクェア・ガーデンやその他の会場からのテレビ中継では「WWFヘビー級王座」と『世界』抜きになっていたり、NWA世界ヘビー級王者がパンフレットで紹介されることもあったが、テレビ中継の無い試合では世界王座として紹介されることが多かった。
テネシー州の隣のケンタッキー州では1979年、NWAやAWA、WWFと提携していない、本当の意味での『アウトロー団体』が誕生。元US王者アンジェロ・ポッフォがレキシントンを本拠にインターナショナル・チャンピオンシップ・レスリング(ICW)を旗揚げした。ポッフォはテネシー州のニック・グラスやロン・フラーを相手に興行戦争を仕掛けたり選手を引き抜いたりした。また、自分の長男にランディ・サベージ、次男にリーピング・ラニーと名乗らせ、ライバル同士の抗争を展開させた。「1978年5月にサンフランシスコでジョー・バニックを破り王座を奪取した」という触れ込みでラニーをインターナショナル・ヘビー級王者に認定するが、実際ICWが興行を開始したのは翌年7月頃だった。8月5日には実兄ランディがラニーを破り王座を奪取。1980年3月以降は世界王座として認定された。
1980年1月17日メキシコシティで、新日本プロレスで活躍するタイガー・ジェット・シンがカネックを破りUWA世界王座を奪取。4月には同地でアントニオ猪木がシンを破り半年間保持した後、10月に沖縄でシンが奪回するが、1981年2月にはカネックに敗れる。
1980年4月21日、イギリスのロンドンでビッグ・ジョン・クインがウェイン・ブリッジを破り、ジョイント・プロモーションズ認定世界ヘビー級王座を奪取するが、同年王座を持ったまま敵対団体オールスター・プロモーションに移籍。ジョイント・プロモーションズでは6月に王座決定トーナメントを開催し、ジム・ハリスを決勝で破ったブリッジが再度王者に認定された。だが1983年2月、ブリッジも王座を持ったまま移籍。オールスターでは2年以上2人の世界王者が存在し、最終的には1985年5月20日バークシャーでブリッジがクインを破り王座統一。

日本ではジュニアヘビー級扱いだったが、英国では1980年代の大半を世界ヘビー級王者として君臨。
同じく1980年4月、テネシー州メンフィスでは空位となっていたCWA世界王座決定戦でビル・ロビンソンがマスクド・スーパースターを破る。その後ロビンソンはビル・ダンディやオースティン・アイドル、ボビー・イートンといった現地の主要選手達に王座を奪われるが毎回短期間で奪回。だが1981年4月にドリー・ファンク・ジュニアがロビンソンから奪取すると間もなく王座は封印され、以後同地区では主にAWA世界王座が認定された。
ギリシャで認定されていた世界王者イワン・ボリエンコフ(ダニー・リンチ)は、1980年7月14日アテネでコスタス・サファカスに敗れる。9月1日の時点でもサファカスが保持していたが、それ以降の同王座に関する情報は、自分の研究範囲内では今のところ不明だ。
1980年7月18日、シカゴでバーン・ガニアがニック・ボックウィンクルを破り10度目のAWA世界王座栄冠。翌1981年5月10日、セントポールでボックウィンクルを破り防衛。ガニアはこの試合を最後に(一時的に)引退し、AWA世界王座は5月19日付でボックウィンクルに授与された。いくら引退試合とはいえ、試合で王座を明け渡さず、王座決定戦もなしでそのまま新王者を認定してしまった。
1980年9月22日、ニューヨークのマディソン・スクェア・ガーデンでNWA世界王者ハーリー・レイスがWWF王者ボブ・バックランドと対戦するが、レイスの反則負けで王座移動はなかった。
1981年4月27日、ジョージア州オーガスタで、当時同地区で人気絶好調だったトミー・リッチがハーリー・レイスからNWA世界王座を奪取するという番狂わせが起こった。5月1日にはゲインズビルでレイスが奪回し、リッチが保持したのは僅か4日間という異例の王座移動だった。6月にはアトランタでダスティ・ローデスがレイスを破り2度目の王座奪取。そして9月17日にはカンザスシティでリック・フレアーがローデスを破り初栄冠。
1981年9月30日、国際プロレスが解散。同時にラッシャー木村の保持するIWA世界王座も封印された。
1982年7月4日、ジョージア州アトランタでNWA世界王者リック・フレアーとWWF王者ボブ・バックランドが対戦するが両者リングアウトに終わった。
1982年7月23日、メキシコシティで日本から遠征中の長州力がカネックを破りUWA世界王座を奪取。9月にはカネックに敗れるが、勢いをつけた長州は直後の帰国で藤波辰巳に反旗を翻し、プロレス史に語り継がれることとなる『名勝負数え歌』が始まる。その藤波も1983年春にメキシコへ遠征し5月にカネックから同王座を奪取。奪回されるまで約1ヶ月半保持した。

ボブ・バックランドやスタン・ハンセン、ハルク・ホーガンらと対等に戦い、アンドレ・ザ・ジャイアントからはピンフォールも奪ったという、メキシコでは正にヘビー級のトップ選手だった。
1982年12月19日、ドミニカ共和国のサントドミンゴで、NWA世界王者リック・フレアーは観客の暴動を避けるため、試合中自ら挑戦者ジャック・ベネノにフォール勝ちを修めさせる。ベネノは、防衛戦のために国を留守にしたくないことを理由にNWA王座をフレアーに返すが、自国では1993年になっても世界王者を名乗っていた。
同じく12月、NWA会員マイク・ラベールのロサンゼルス地区が事実上閉鎖。以降、WWFが引き続きラベールの名をプロモーターとして使いながら同地区で興行を始める。だが、その半年前の6月にはビンス・マクマホン・ジュニアが父シニアからWWFを買収しており、ロサンゼルス進出はその後の動向を予感させるような出来事だった。
1983年春、第1回IWGP開催。1980年12月に新日本プロレスのアントニオ猪木が打ち上げた「世界中に乱立するベルトを統合し、世界最強の統一世界王者を決定する」という構想だったが、提携中だったWWFのヘビー級王者ボブ・バックランドさえも招けず、中南米代表としてUWA世界王者カネック、欧州代表としてCWA世界王者オットー・ワンツが参加したものの、結果的にはそれまで毎年開催されていたMSGシリーズの延長のようなものだった。
同じく1983年春、テキサス州サンアントニオのプロモーター、ジョー・ブランチャードがヒューストンに進出。5月26日、ルー・テーズを立会人に招き、世界ヘビー級王座決定トーナメントを開催。用意されたベルトは、色こそ違うがNWA世界王座と酷似していた。決勝ではアドリアン・アドニスがボブ・オートン・ジュニアを破り優勝。一瞬話題となった王座だったが、間もなくアドニスも地区を離脱。続いでスコット・ケーシーが認定されるが、9月には同王座は封印された。
1983年6月、セントルイスでハーリー・レイスがリック・フレアーからNWA世界王座を奪回。だがこれは、11月にノースキャロライナ州で開催予定だった『スターケード』をフレアー王座奪回劇で盛り上げるための王座移動だと言われている。11月24日、グリーンズボロで元世界王者ジーン・キニスキーを特別レフリーとして行われた金網デスマッチでフレアーがレイスを破り、政権交代となった。
その間WWFがNWAを脱退、全米侵攻が本格的に開始され、WWFヘビー級王座は再び世界王座として認定されることになる。長年米プロレス界で実況を務めるジム・ロスによると、ビンス・マクマホン・ジュニアは『スターケード』の直前、コネチカット州の自宅にハーリー・レイスを招き、25万ドルでNWA世界王座を持ったまま即WWFに移籍するよう交渉したという。レイスは、「そんなことをしたら鏡に映る自分の姿を見れなくなる」という理由で拒否し、グリーンズボロでの『使命』を果たした。
また『スターケード』には当初AWAで活躍中だったハルク・ホーガンも参戦予定だったが突如中止となった。12月にボブ・バックランドがアイアン・シークに敗れWWF世界王座から転落すると、翌1984年1月にはホーガンがシークを破り同王座を奪取するが、WWFの全米侵攻における中心的存在になったことを考えると、当然の不出場だった。以降ホーガンの人気は不動のものとなり、1990年代中期のスティーブ・オースティンの台頭まで、アンドレ・ザ・ジャイアントと並び世界で最も有名なプロレスラーとなった。
1983年11月26日、イリノイ州スプリングフィールドでポール・クリスティがICW世界王者ランディ・サベージを破り、4年以上におよぶ長期政権に終止符を打った。翌年ICWは閉鎖し、サベージと弟のラニー・ポッフォはメンフィス地区に転戦したが、1985年にはWWF入り。
1984年2月10日、全日本プロレスのシリーズ初日、東京のホテルで次期NWA世界王者候補だと言われていたデビッド・フォン・エリックが死体で発見される。5月6日にはテキサス州アーヴィングで追悼大会が開催され、弟のケリーがリック・フレアーからNWA世界王座を奪取するが、早くも18日後の24日には横須賀でフレアーが奪回。その後もフレアーはダスティ・ローデスやロニー・ガービン、リッキー・スティムボートらに王座を奪われるが、いずれも2~3ヶ月以内で奪回し、1980年代においては正にフレアーこそがNWA世界王座の代名詞だった。また翌1985年には、フレアーが本拠とするミッドアトランティック地区のジム・クロケット・ジュニアがNWA会長に2度目の就任。世界王者フレアーのブッキングをほぼ独占するようになり、NWA内で更なる不調和が生じた。
デビッド他界で始まった全日本プロレスの『エキサイト・シリーズ』では、2月23日に蔵前国技館で行われたダブルタイトル戦で、NWAインターナショナル王者ジャンボ鶴田がニック・ボックウィンクルを破り日本人としては初めてAWA世界王座を奪取。2ヶ月近く保持した後、米国に向かい、4月28日のサンフランシスコ大会を皮切りに王座防衛サーキットに入る。その間少なくとも9回は防衛したが、その大半がボックウィンクル相手の反則負けによるものだった。最終的には5月13日セントポールでリック・マーテルに敗れ王座転落。マーテルは2日前に開始した新日本プロレスの『’84 IWGP』への参加を土壇場でキャンセルしたばかりだった。
1985年1月29日、インディアナポリスでザ・グレート・ウォージョーことグレッグ・ウォジョコースキーを破り、55歳のディック・ザ・ブルーザーが13度目で最後のWWA世界王座栄冠。間もなくウォージョーは奪回するが、1988年に王者のまま引退。その頃既にブルーザーはインディアナポリスから360km離れたところにあるオハイオ州トレドのプロモーターに団体を売却していたが、1989年頃にはWWAは閉鎖。
1985年10月21日、全日本プロレスの両国国技館大会で、最初で最後のNWAとAWAの両世界王者による対戦が行われ、リック・フレアーとリック・マーテルが両者リングアウトで引き分けた。
1986年2月20日、NWA傘下だったテキサス州のワールド・クラス・チャンピオンシップ・レスリング(WCCW)はNWA脱退を表明。同地区認定NWAアメリカン王座を保持していたリック・ルードを、ワールド・クラス・レスリング・アソシエーション(WCWA)世界王者として認定。だが、1984年のデビッドだけではなく1987年のマイクの自殺と、息子達の度重なる悲報からフリッツ・フォン・エリックは興行から撤退することを決意。ケン・マンテルをブッカーに、ケビンとケリーが団体を受け継ぐが、経営は思うよう行かず、1988年秋にはケリーの提案でメンフィスのジェリー・ジャレットに売却する。1989年8月WCCWはユナイテッド・ステーツ・レスリング・アソシエーション(USWA)に名称を変更。
WCCWがNWAを脱退すると間もなく、隣接する地区だったミッドサウス・レスリング・アソシエーション(MSWA)もテレビ中継などを通しての全米進出を狙い、ユニバーサル・レスリング・フェデレーション(UWF)に改称。長年認定してきた北米ヘビー級に替わるUWF世界ヘビー級王座の決定トーナメントを1986年5月30日テキサス州ヒューストンで開催した。決勝ではテリー・ゴーディがジム・デューガンを破り初代王者に認定。だが、1987年4月にNWAのジム・クロケット・ジュニアがUWFを買収すると、特に統一戦も行われることなく12月にはUWF世界王座が封印された。団体対抗戦などを行わず、テレビ番組のみを目的にUWFを買収したと言われるクロケットだが、それが大きな原因の1つとなり、翌1988年には身売りする羽目になる。
UWF世界ヘビー級王座決定トーナメント総集編
冒頭では北米王者ジム・デューガンが現地プロモーターのポール・ボッシュにベルトを返還。
1986年3月29日開始の全日本プロレス『チャンピオンカーニバル’86』では、前年12月にリック・マーテルを破ったスタン・ハンセンがAWA世界王者として参戦し、ジャンボ鶴田や長州力を相手に防衛。同年7月の『サマー・アクション・シリーズ』にも王者として参戦予定だったが、直前の6月28日コロラド州デンバーで、突如としてニック・ボックウィンクルに王座を明け渡すようバーン・ガニアから要請される。王者であるにも関わらずそれまでの扱いに不満を持っていたハンセンは、翌週から王者としての日本遠征が決定していたこともあり、ボックウィンクルとの対戦を拒否。結果、AWAはハンセンから王座を剥奪しボックウィンクルを認定するが、ハンセンはそのままベルトを持って日本へ向かい王座を防衛した。AWAは法的手段を取りベルトを返還するようハンセンに要請したが、ハンセンはトラクターでベルトを踏みつぶしてAWAに送り返したという。ボックウィンクルは1987年5月、サンフランシスコでカート・ヘニングに敗れ王座転落。
同じく1986年には、カリフォルニア州南部とメキシコのティワナを拠点とした新団体ワールド・レスリング・アソシエーション(WWA)が発足。10月4日にロサンゼルスで行われた初代世界ヘビー級王座決定戦ではビル・アンダーソンがティニエブラスを破った。
1987年3月22日AWAのコロラド州デンバー大会で、同年12月に新日本プロレスにビッグ・バン・ベイダーとして登場することになるレオン・ホワイトがオットー・ワンツを破る。現地ではヨーロッパ選手権試合と銘打たれたが、実際にホワイトが奪取したのはワンツが長年保持するCWA世界王座だった。4ヶ月後オーストリアのグラーツでワンツが奪回するが、1989年8月ウィーンでホワイトがブル・パワーの名で再度奪取。
1988年2月5日、インディアナポリスでWWF世界王者ハルク・ホーガンとアンドレ・ザ・ジャイアントが対戦。ホーガンが2カウントで肩を上げたにも関わらず、レフリーが3カウントを数えたため、アンドレの王座奪取となった。だが、試合直後、アンドレはテッド・デビアスに王座を贈呈。1週間後WWFは、デビアスに贈呈したことによってアンドレは王座を放棄したと判断し、空位とした。3月27日にニュージャージー州アトランティックシティでの『レッスルマニアIV』で開催された王座決定トーナメントでは、1回戦でホーガンとアンドレが両者リングアウトにより失格。決勝でデビアスを破ったランディ・サベージが王座を奪取した。
※ ちなみに2月5日の試合は、自分も高校の寮のテレビで中継を観てたのだが、ホーガンが王座転落となったとたん、部屋の壁をぶっ叩いて出てったホーガンファンもいた。
1988年5月9日、テネシー州メンフィスでジェリー・ローラーがカート・ヘニングを破りAWA世界王座を奪取。1978年、メンフィス地区のチャンピオンシップ・レスリング・アソシエーション(CWA)がAWAと提携し、5月にはボックウィンクルの保持するAWA世界王座にローラーが初挑戦するが、反則勝ちのため王座奪取にはならず、以来10年越しでAWA王座を追い続けてからの念願の初栄冠だった。同年秋、CWAのジェリー・ジャレットはダラスのWCCWを買収。
イギリスでは1988年、オールスター・プロモーション認定世界王者ウェイン・ブリッジが引退。以降同団体は独自に世界ヘビー級王座を認定していないと思われる。
1988年11月、ジム・クロケット・ジュニアはTBSやCNNの創始者で当時ケーブルテレビ王として知られていたテッド・ターナーに身売り。ターナーはそれまでTBSでの番組名だった『ワールド・チャンピオンシップ・レスリング(WCW)』で新会社を設立した。あくまでNWAの会員だったのはクロケットだが、WCWが引き続きNWA王座を認定していたため後に混乱を招くことになる。
1988年12月9日、東京で藤波辰爾がケリー・フォン・エリックを破りWCWA世界王座を奪取するが、ケリーの大量出血でレフリーストップという、日本では見ることのない裁定だった。翌日藤波がその結果を不服とし、ケリーに王座を戻すが、実は3日後、全く同じ裁定により王座が正式に移動した。12月13日、シカゴで行われた王座統一戦でAWA世界王者ジェリー・ローラーがレフリーストップによりケリーを破った。翌1989年1月、シカゴ大会でのギャラ未支払いを理由にメンフィスCWAおよびダラスUSWAがAWAと袂を分かち、ローラーも「予定されていた防衛戦に不出場だった」としてAWA世界王座を剥奪されるが、USWAやCWAでは引き続き統一世界王者として認定される。1989年12月にはUSWAが正式にCWAを吸収合併し、テネシーやケンタッキー、アーカンソーの各州に加えテキサスやインディアナ、ミシシッピの一部がUSWAの勢力内となる。
世界ヘビー級王座統一戦: ジェリー・ローラー[AWA] vs ケリー・フォン・エリック[WCWA]
ジェリー・ローラーから王座を剥奪したAWAでは1989年2月、なんとバトルロイヤルで世界王座決定戦を開催。バーン・ガニアの娘婿ラリー・ズビスコがトム・ジンクを破り優勝した。1985年以来スポーツ専用ケーブル局ESPNでの全米中継は続いていたが、この頃は低迷を辿る一方だった。
USWAから統一世界王座として認定されていたジェリー・ローラーは、以前長年保持したAWA南部王座同様、何度も王座を失うがほぼ毎回短期間で奪回。1989年4月にはマスター・オブ・ペイン(後のザ・アンダーテイカー)、10月にはソウルテイカー(後のパパ・シャンゴおよびゴッドファーザー)がローラーを破るが、それぞれ保持したのは2週間だった。12月30日には元ミシシッピ川王者キング・コブラがローラーから王座奪取。
1989年4月2日、前年同様アトランティックシティで『レッスルマニアV』が開催され、1年以上WWF世界王座に君臨していたランディ・サベージをハルク・ホーガンが破り王座奪回。
1989年11月22日、IWGP王者ビッグ・バン・ベイダーがUWA世界王者カネックを破り2冠王となった。ヨーロッパのCWA世界王座と併せて3ヶ国で主要王座を奪取したことになる
WWFによる全米侵攻およびWCWの出現により、勢力図が大きく塗り替えられた1980年代の米プロレス界。日本やメキシコの団体に参戦できるアメリカやカナダの選手も制限されるなど、その影響は大きかった。新日本プロレスではそれまでのリーグ戦を廃止しIWGP王座を認定、全日本プロレスもインターナショナル、PWF、ユナイテッド・ナショナルを統一し三冠王座を認定したが、いずれの団体も世界ヘビー級王座を認定することはなかった。
1989年12月末の時点での世界王座は以下のとおり。
- NWA: リック・フレアー
- WWF: ハルク・ホーガン
- AWA: ラリー・ズビスコ
- USWA: キング・コブラ
- UWA(メキシコ): ビッグ・バン・ベイダー
- WWA(メキシコ、カリフォルニア): ドス・カラス
- CWA(オーストリア、ドイツ): ブル・パワー[ビッグ・バン・ベイダー]
団体名だけ見ると1970年に引き続いての『3大王座』だったが、1990年代に入ると更に大きく覆されることになる。
資料元:
- Wrestling-Titles.com
- World Class Memories
- The Minneapolis Star
