そろそろネタがなくなってきたんで、この『テキサスの思い出』も後残り2回で終わりかな。今回は、毎週生観戦に行き始める前の話。
そもそも、自分が毎週ダラス・スポータトリアムに通い始めたのは、インターネットで知り合った地元のファン達に誘われたからだ。それまでは、WWFやWCWがダラスに来ても、なぜかしらわざわざ観に行きたいと思えず、ましてやローカル団体なんて、全くその気になれなかった。大学に入ってからの1年間は車も持ってなかったし、寮に住んでたもんでケーブルテレビもなく、見れる番組も限られていた。時々寮のラウンジのテレビで、誰かが地元のプロレスを見てると、ついでに自分も一緒に…と、いった程度。とはいえ、放送は土曜夜だったんで、外で飲んでることの方が多かったのが事実。
1年目が終わり、寮を出てアパートで独り暮らしを始め中古車を買ったが、スポータトリアムがあるのは結構物騒だと言われる地域で、下手にそんなとこまで車で行くくらいなら、部屋でビール飲みながらテレビで見てた方が気楽だと思った。
自分が卒業した高校はテネシー州ナッシュビルから車で1時間ちょっと南に下ったところにある小さな村にあり、これまたいつでも自由にテレビを見れる環境でもなかったが、それでも時々メンフィスからのスタジオマッチでジェリー・ローラー、ビル・ダンディー、ジェフ・ジャレットらの主要選手達はもちろん、トージョー・ヤマモトをマネージャーに、新日本プロレスから海外修行中だったショーグン(橋本真也)とサムライ(笹崎伸司)の悪役コンビが、維新軍団がやってた『太鼓の乱れ打ち』をニヤニヤしながらやってる姿なども見ることができた。
テキサスに住み始めたのは1989年の夏。少しずつながらテレビでプロレスを見るようになったのは、秋に入ってからだったが、その頃は既に、フリッツ・フォン・エリックとケン・マンテルが、スポータトリアムを拠点としていたワールドクラス・チャンピオンシップ・レスリング(WCCW)を、メンフィスのジェリー・ジャレットに売却、ジャレットが60%のオーナーで、残りの40%はフリッツの息子達であるケビンとケリーが所有していた。WCCWがメンフィスのチャンピオンシップ・レスリング・アソシエーション(CWA)と合併し、団体名もユナイテッド・ステーツ・レスリング・アソシエーション(USWA)に変わっていた。その頃の細かいことは、そのうち『ダラス角力史』に書くことになると思う。
大学進学のためにテキサスに引っ越し、当地のプロレスを見れるかと期待していた。確かに、エリック兄弟やクリス・アダムス、アイスマン・キング・パーソンズらの、WCCW時代からの選手達も活躍していたが、選手の多くがメンフィス系で、ほんの少しだが、がっかりした記憶がある。メンフィスの面子を見ればわかると思うが、ジェリー・ジャレットは、自身が小柄だからか、売り出す選手もローラーやダンディーなど、決して大きくはない。そんな感じで、ダラスでも売り出していたのは、WCWA世界ライトヘビー級王者エリック・エンブリーだった。正直、エンブリーと、トージョー・ヤマモトとスカンドル・アクバが率いる悪役軍団との抗争は、それほど面白いとは思わなかった。
そんな中、1人、なんとなく気になる選手がいた。当時ダラスでプロレス教室を開いてたクリス・アダムスの門下生で、スティーブ・ウィリアムスという選手だ。日本に来ていたオクラホマ出身のウィリアムスではなく、卒業こそはしてないと思うが、我が母校である北テキサス大のフット―ボールチームで活躍していたらしい、その秋にデビューしたばかりの新人選手だ。「この名前は、使っちゃだめだろ。」と思いながらも、将来大物になりそうな感じがした。
当初はアダムスの弟子としてタッグを組んでいたが、ある日突然、「俺は今日から、スティーブ・オースティンだ。」と宣言、「いや、お前の名前はスティーブ・ウィリアムスじゃないか。」と、リングネーム変更を拒否するアダムスに反抗し、悪役転向。そこからは、夫人であるトニーをセコンドに連れてくるアダムスに対し、アダムスの『元妻』(実際には元彼女)ジェニー・クラークを連れてくるオースティン。WWF顔負けのメロドラマの様なこの2カップル間の抗争は、ダラスのローカル団体での話であるにも関わらず、一般紙でも取り上げられるくらいの話題となり、USWAのダラス側をかなり盛り上げた。
だが1990年には、ケリー・フォン・エリックが脱退、WWFに移籍。間もなく、ケビンとジャレットが収入に関する問題で袂を分かち、同じ頃にテレビ局との契約も切れ、長年続いたスポータトリアムからの中継も終焉を迎えた。
その後ダラスで放送されていたのは、同じUSWAでも、ナッシュビルからのもので、メンフィスからのスタジオマッチほど、見てて楽しいものではなかった。また、ゲリー・ハートがテキサス・レスリング・フェデレーション(TWF)なる団体を別会場で旗揚げ、なんとか地元のテレビ局とも契約し、ケビンやオースティンといったダラスUSWA残党らに加え、確かケンドー・ナガサキも出場していたと記憶するが、間もなくオースティンはWCWに移籍。個人的には、今後の活躍に期待しながらも、ちょっと寂しい気もした。結局TWFも長続きはしなかった。
ジャレットもダラスから撤退し、1991年にはグローバル・レスリング・フェデレーション(GWF)がスポータトリアムで旗揚げ。最初の頃はESPNでも放送され、エディ・ギルバートやザ・パトリオットを中心に、それまでマニアの間では話題となっていたライトニング・キッド(Xパックことショーン・ウォルトマン)とジェリー・リンとの抗争などで人気を得たが、翌1992年には、団体のオーナーも変わり、ブッカーだったギルバートも脱退、結局アダムスやパーソンズなどのWCCW組が復帰することになる。
しばらくすると、自分もやっと重い腰を上げて、毎週車であの物騒な地域まで生観戦しに行くことになった。
