全米50州で7番目に人口の多いオハイオ州は、中西部に位置し、ミシガンやペンシルバニアを含む5つの州に囲まれ、北は五大湖に面している。最大都市のコロンバスはアル・ハフトの指揮の下、1920年代から1960年代の前半までは米国プロレス界における主要都市の1つだった。その他の都市としては州北部でエリー湖に面したクリーブランドや、ケンタッキー州との境にあり同州ルイビル、コロンバス、そしてインディアナ州インディアナポリスの丁度間くらいに位置するシンシナティがある。
他地区同様、オハイオ州でも1930年代まではライトヘビー級以下の中軽量級選手権が認定されていた。
現時点での自分の調査で判明している範囲では、オハイオ州にて最初にウェルター級選手権が認定されたのは、1897年1月15日、スプリングフィールドでエディ・バーがエルマー・ウッドマンシーを破り米国王座を奪取した時だが、バーがその後世界王者を名乗ったという記録は今のところ見つかっておらず、1900年代に入るとミドル級に転向。
バーが米国ウェルター級王座を奪取する約2年半前の1894年6月頃、シンシナティではボビー・リークスが米国ライト級王者を名乗っていたが、約9年後の1903年5月21日、ミシガン州との境にあるトレドで、ハービー・パーカーに敗れ王座転落。パーカーは数ヶ月後、階級をあげ世界ウェルター級王座を主張し始めるが、12月3日にはニューヨークでアレックス・スワンソンがパーカーを破り王座奪取。
翌1904年になると、AAU全米アマレス選手権4階級制覇を成し遂げたマックス・ワイリーが、プロのリングにおいて世界ウェルター級ならびにライト級王座を主張。だが10月26日、トレドでアル・アッカーマンに敗れ王座転落。更にアッカーマンは1906年10月30日リマで、1903年12月にハービー・パーカーから王座を奪取していたアレックス・スワンソンも破り、王座を統一する。

1899年全米アマレス選手権で、125、135、145ポンドの3階級を制覇し、
更に1901年には158ポンド級でも優勝。
それから約3ヶ月後の1907年1月22日、コロンバスから約50マイル(80km)のところにあるマリオンで、フレッド・バートルがアッカーマンを破り世界王座を奪取するが、翌1908年8月、州東部にあるヤングスタウンで行われたボクシングの試合に出場した際、脳に強い打撃を受け、数ヶ月におよぶ長期欠場に追い込まれる。
バートル欠場中、アッカーマンは再び世界王者を名乗り、更には1909年元旦、サウスキャロライナ州コロンビアで復帰したバートルをも破る。アッカーマンはその後、少なくとも1911年5月下旬までオハイオ州にて世界王座を保持した。

1910年2月25日、ユタ州ソルトレークシティでマイク・ヨークルに敗れるが、オハイオ州では引き続き王者として活躍
その後は、「1912年に王座を奪取した」として、ビリー・ショーバーが1915年末頃まで王座を主張。
1917年秋になると、かつて1912年にトレドで世界ライト級王者ジョニー・ビリターを破ったマティ・マツダがオハイオ州に再登場。1879年熊本出身でこの頃既に30代後半だったマツダは、1915年から約2年間、アラバマ州を中心にライト級で日本人選手初の世界王者として活躍し、オハイオ復帰後の1918年1月にはコロンバス周辺で世界ウェルター級王者に認定される。

日本人初の世界王者
以来同州において王者としての地位を確立していたマツダだが、1919年12月30日、アイオワ州シーダーラピッズにて、1917年以来現地で王者として活躍していたジャック・レイノルズに敗れ、王座から転落。以後2人はオハイオ州だけではなく、テキサス州やインディアナ州などでも抗争を展開、1928年夏に終止符が打たれるまでウェルター級王座の移動を何度も繰り返した。
1920年代の大半を、世界ウェルター級王者として中西部から南西部、西海岸まで幅広く活動していたマツダは、その後地元エルパソでジュニアミドル級として試合をしていたが、1929年になると再びオハイオ州やインディアナ州に転戦。シンシナティでのバサンタ・シンとの試合で負傷し、ミシガン州の中でもインディアナ州に近いバトルクリークで療養していたが、8月15日帰らぬ人となった。追悼式には最後の対戦相手となったシンの他、かつてのライバルだったレイノルズ、ジョニー・マイヤースらが出席した。
1930年1月、ワールド・ボクシング・アソシエーション(WBA)の前身であるナショナル・ボクシング・アソシエーション(NBA)は、プロレスにおいても独自の選手権や規約を設けることを決定し、ライトヘビー級、ミドル級、ウェルター級の3階級世界王座決定戦を全てオハイオ州内で開催。既に同地においても世界ウェルター級王者として活躍していたジャック・レイノルズは、1930年2月21日コロンバスでチャーリー・グリップを破りNBAからも認定。同年9月、NBAはプロレス部門がナショナル・レスリング・アソシエーション(NWA)として独立することを承認。

初代NWA世界ウェルター級王者
NBAのプロレス世界王座決定戦開催に協力したコロンバスのアル・ハフトだったが、ヘビー級王者認定に関してNWAと意見の相違が生じ、同年10月末にはNWAを脱退、ミッドウェスト・レスリング・アソシエーション(MWA)を発足した。MWAは1931年11月3日、クリーブランドでピート・メトロプロスを破ったロビン・リードを世界ウェルター級王者に認定。リードは1934年にジュニアミドル級に転向するまで同王座を保持した。
一方、レイノルズは引き続きNWAから認定され、オハイオ州ではシンシナティを中心に防衛。1917年アイオワ州での世界王座初栄冠から、1937年に階級を上げる際王座を返上するまで、何度も王座から転落したがすぐ奪回し、約20年の間米プロレス界においてウェルター級の第一人者として君臨した。同じ頃オハイオ州王座も姿を消し、以後同州においてウェルター級王座が認定されることはなかった。
資料元:
- Wrestling-Titles.com
- The World Almanac and Book of Facts 1903
- The Columbus Dispatch
- Plain Dealer (クリーブランド)
- Cincinnati Post
- The Toledo News-Bee
- The Montgomery Advertiser (アラバマ州モントゴメリー)
