来月で渡米34年になる。
弱冠16歳で、当時浜松にあったクリスチャン系の留学斡旋機関を通して、32名の生徒達と共にこの国に来たのが1987年4月。
22日に成田を出てロサンゼルスに到着。だが、大幅に遅れたため、そのまま乗り継ぐ予定だったアトランタ行の便を逃し、ロサンゼルスで夜までホテルで休む羽目に。陽が沈んだ後、西海岸を出発し大陸横断、翌朝アトランタに到着。そこから更に乗り継いで目的地のシャーロットに向かった。
最終的にたどり着いたのは、シャーロットの隣のベルモントという小さな町。当時カトリック系の大学が2つあり、その片方には英語を母国語としない人達のための語学学校があった。我々生徒は全員、日本からの引率者達と共に、その大学の寮に住みながら、英語の授業に出席していた。
アメリカの学校は、地域によって始まる時期が異なるので、7月後半になると仲間達が少しずつベルモントを去り、全米の高校や大学に散らばっていった。9月上旬にテネシー州の高校が始まる予定だった自分は、他の生徒達がいなくなっても最後まで残った。
あくまでこれから高校や大学に進学しようとしてる中学生や高校生の集団。おまけに英語力はほぼ無に等しい。自由に動き回れるわけがなく、徒歩範囲には食料品店くらいしか行ける場所はなかったと記憶する。それ以外の外出は、引率者や寮監の運転がないとどこにも行けない状態だった。
そんなわけで、最後まで残ったおかげで同地が世界に誇る選手に会えることができたのはよかったが、せっかくシャーロット地区に4ヶ月半も滞在しながら、結局プロレス生観戦は出来ず。テレビでのシャーロット・コロシアム大会の宣伝にロード・ウォリアーズの名が出た時は、非常に残念だった記憶がある。別にファンではなかったが、自分が渡米する前月に日本でジャンボ鶴田&天龍源一郎から奪取した日本の至宝インターナショナル・タッグ王座を引っ提げての登場だったからだ。
シャーロットというと、親子2代でナショナル・レスリング・アライアンス(NWA)の重鎮だったクロケット一家のお膝元なわけだが、自分が渡米した頃は既にジョージアやセントルイス、フロリダといったNWAの他地区を買収した後で、全米進出真っ最中だった。そのうえ自分が同地に住み始めた4月は、丁度クロケットがビル・ワットからユニバーサル・レスリング・フェデレーション(UWF)という団体を買収した頃で、それを知らなかった自分は、なぜ同じ選手達がNWAとUWFの両方に出場しているのか、しばらく状況を把握できなかった。
ジェームス・アレン・クロケット・シニアは1909年ブリストル出身。バージニア州とテネシー州にまたがる町だが、バージニア側が故郷だ。1931年には、弱冠22歳にして、既にピート・ムーアと共にプロレスの興行に携わっていたという。1933年にはノースカロライナ州に進出し、同年10月には『アイリッシュ・ホーラン』ことジョン・ホーランのパートナーとして、シャーロットでの興行許可も与えられ、翌月初興行。その後クロケットは、同州内のグリーンズボロでの興行を手掛けることに。

だが、翌1934年春、ホーランとシャーロット・ボクシング・コミッションの関係が悪化し、5月下旬ホーランの興行権は剥奪される。クロケットは、バージニア州リッチモンドのプロモーター、ビル・ルイスと共に、シャーロットでの興行権を申請するが、ホーランの補佐を務めていたジョー・ウィリアムソンが後継者として選ばれたため断念。ウィリアムソンは、出場予定選手の一覧と共に7月の興行を発表するが、何等かの事情で中止にしてしまう。結局、シャーロットでの興行権はクロケットとルイスに移ることになった。
ニューヨークの大プロモーター、ジャック・カーリーと繋がりのあったルイスと共に、クロケットはノースカロライナやバージニア、故郷に近いテネシー州東部などを含むテリトリーを築き上げ、1935年には一時的だが、旧友ピート・ムーアと共にフロリダ州タンパにまで進出。
1948年夏、NWAが発足すると、間もなく全米から加盟申請が殺到。クロケットは1951年3月、晴れて会員となり、1953年5月には、近隣のNWA会員達と共に、NWAの下部組織としてサザン・レスリング・アライアンス(SWA)を発足。
1972年春になると、クロケットとルイスはテレビ中継や興行の名称として『ミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリング』を使い始める。通常、『ミッドアトランティック』というと、北はニューヨーク、南はメリーランドやワシントンDCまでの地域のことを指す。場合によってはバージニアも含まれることがあるが、ノースカロライナが入ることはない。クロケットらはサウスカロライナやジョージア州サバンナにまで進出するのだが、こういった理由で、プロレス界でいう『ミッドアトランティック』は、一般とは異なりバージニアと南北カロライナを意味することになる。
1973年4月1日、クロケット・シニアが他界。妻エリザべスと、4人の子供達(フランシス、ジム・ジュニア、デビッド、ジャッキー)が遺されたが、後継者としてジム・シニアが指名していたのは、フランシスの夫ジョン・リングリーだった。クロケットの長男ジム・ジュニアが、プロレスの興行に関する知識がほぼ無だったということもあり、リングリーは、ブッカーとして、弟サンディとのタッグで各地の王座に君臨したジョージ・スコットを起用。後年、「(プロレスの)ビジネスに関しては、自分は大したことがなかった。」とジム・ジュニアは語ったが、ミッドアトランティック地区の繁栄はスコットによるものだと言っても過言ではない。
だが、リングリーの不倫が発覚すると(告発したのはジム・ジュニアだという説もある)、シニアの後継者はクロケット家の人間であるべきだということから、元々プロレスには興味の無かった長男ジュニアが団体を引き継ぐこととなった。同地区認定の東部州ヘビー級王座や大西洋岸タッグ王座もミッドアトランティック王座に改称。
翌1974年、ミネソタ州を拠点とするアメリカン・レスリング・アソシエーション(AWA)から、リック・フレアーがミッドアトランティック地区に転戦。フレアーは、AWAのプロモーター兼トップ選手バーン・ガニアを師匠とするが、「ガニアがいらいないと言ったから、我々が引き取った。」とクロケット・ジュニアは語る。1980年代に入ると、フレアーを世界ヘビー級王者とし、NWAは新時代に入り、クロケットも3度会長を務める。
その後のNWAでのクロケットについては、(相変わらず間違った情報が目立つとはいえ)日本語でも色んなところで書かれており、わざわざここで書く必要はないと思われるので省略させていただく。

※ ただし、テレビ中継で実況を担当していたビンス・マクマホン・ジュニアは、その発表を無視するかのごとく、それに続いて行われたWWFヘビー級王者ボブ・バックランドと挑戦者アドリアン・アドニスの選手権試合を宣伝していたという。
1987年のUWF買収により、大きな負債を抱えてしまったクロケットは、全米進出におけるライバル団体ワールド・レスリング・フェデレーション(WWF)への団体の売却を計画。だが、1972年からジョージア・チャンピオンシップ・レスリング、続いて1984年からはクロケットの団体のテレビ中継を続けてきたテッド・ターナーはそれを許さず、看板番組の名称だった『ワールド・チャンピオンシップ・レスリング』(WCW)を新社名として、自らジム・クロケット・プロモーションズを買収。
その後クロケットは、NWAへの籍を残しながらもWCWに相談役的な立場で残留。数年間におよぶ競合禁止契約満了後の1993年8月、拠点を移していたテキサス州で、NWA傘下団体としてワールド・レスリング・ネットワーク(WWN)を発足し、AWAやNWA、WCWで悪役マネージャーとして大活躍していたポール・ヘイマンをブッカーとして起用。更には翌1994年2月、テリー・ファンクやサブゥー、ジェーク・ロバーツ、ロード・ウォリアー・ホークなどといった錚々たる面子を集め、ニューヨークのマンハッタンセンターでのテレビ収録を敢行。
だが、方向性の違いや、9月にヘイマンが同じくNWA加盟団体だったイースタン・チャンピオンシップ・レスリング(ECW)のブッカーに就任したことなどが理由で、2人は袂を分かつことになる。とはいえ、ヘイマンの能力を見出し、ブッカーに起用したのもまたクロケットの偉業の1つかもしれない。
同じ頃、クロケットが拠点を移していたダラスでは、1991年6月からスポータトリアムで毎週の興行を続けていたグローバル・レスリング・フェデレーション(GWF)が1994年9月に閉鎖。翌月クロケットは再びNWAの名での興行をスポータトリアムで再開し、グレッグ・バレンタインやタリー・ブランチャード、そして半ば引退状態だった地元の英雄ケビン・フォン・エリックらも出場。だが翌1995年5月には閉鎖し、1931年にブリストルで始まって以来続いた親子2代によるプロレス興行にも終止符が打たれた。
当時は自分もダラス周辺に住んでいて、毎週スポータトリアムに通って友人達と最前列に陣取り、野次を飛ばしまくってた頃だ。(おそらく)唯一の東洋人の常連客で、それも毎週最前列で大騒ぎしてた自分は、もしかしたら(よくない意味で)目立っていたかもしれない。
GWFからクロケットのNWAに興行が移ってからの数週間はアルコール飲料の販売許可が下りてなく、みんなでビールを飲みながら観戦するのが楽しみだった我々は結構不満だった。
4週目か5週目か記憶が定かでないが、アナウンサーで自分とは個人的にも知り合いだった故マーク・ナルティがクロケットと共に、観客に対して何等かの報告をしていた。
すると、一緒にいた友達の1人が小さめの声で、「そんなことどうでもいいから、そろそろビールが欲しいよなぁ。」と呟いた。
お調子者の自分はリングサイドに座ってたのをいいことに、思わずクロケットとマークに向かって大声で、「ええから、ビール飲みてぇぞ!」といった意味のことを野次ってしまった。
クロケットは、隣でマークがマイクを握って何かを発表してるにも関わらず、「しょうがねぇなぁ…」と言わんばかりの苦笑いでこっちを向き、「来週な、来週。それまで我慢してくれ。」と小さな声で一言。
あの、天下のジム・クロケット・ジュニアに対して、失礼な野次を飛ばすだけはなく、返答までさせてしまった、弱冠23歳のクソガキだった自分。正に若気の至りってやつだ。
自分が渡米後最初に住んだ土地であるシャーロットを中心に一時代を築き上げ、自分にとっても思い入れのある大プロモーターを相手に、束の間だったが言葉を交わしたのは、後にも先にもそれっきり。それもまた貴重な思い出だ。
故人の魂とご遺族の癒しを祈りつつ。
RIP…
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