(前編から続く)
1954年8月20日にジョージア州アトランタで、2人の世界王者ミルドレッド・バークとジューン・バイヤーズによる統一戦がついに決定。
現地では、当初バークの味方のふりをしていたブッカーのドン・マッキンタイヤーも、プロモーターのポール・ジョーンズと共に、実はビリー・ウルフに協力していた。当然、全く取り決めのないまま試合は開始。1本目の途中で膝を負傷したバークは、2本目から巻き返せると確信し、バイヤーズが覆いかぶさって来たところ、レフリーに対して「もういいから、相手に一本取らせてくれ」と告げたという。2本目、膝を負傷しながらもバークは反撃を開始し、バイヤーズも鼻から血を流し始める。だが、2本目が始まって30分近く経ち、あと十数分で時間切れになろうとしていたにも関わらず、レフリーは「負傷しながらも攻撃し合う2人を見かねた」という理由で試合終了を告げた。翌日の新聞でも試合は中断されたという報道がされ、3本勝負のうちバイヤーズは1本しか取ってなかったため、バークの王座防衛となった。
ところが、ウルフはNWAの影響力を利用し、各地区のプロモーター達はもちろん、多くの報道関係者に対してもバイヤーズがバークを破り王座を統一したと発表。前年度の総会で既にNWA本部が女子王座の認定を取り消していたため、それまで以上にウルフの権力でどうにでもなるというのが現実だった。

ミルドレッド・バークに対して「奴らには気を赦すな。」と忠告したという。
バークから王座を『強奪』したアトランタでの試合の後も、ウルフを取り巻く環境は悪い方向へと向かうばかりだった。悪い女癖が簡単に直るわけもなく、バークの後に妻となったネル・スチュアートも、実際に想いを寄せていたのはウルフではなくルイジアナ州のNWA会員ジョー・ガンサーだった。ただ、ガンサーは既婚者であったため、スチュアートはウルフと結婚することにより業界での自分の地位を保とうとしていた。ウルフもまた、スチュアートと結婚して間もなく18歳の新人選手リーチョナ・ラクレアと不倫関係に入っていた。1954年10月、ウルフとスチュアートは正式に離婚。バーク同様、スチュアートも全ての権限をウルフに一任していたため一文無し同然となった。そのうえテキサス州王者だったスチュワートは、業界内での影響力は世界王者バークとは比べ物にならなかった。

1950年代の大半をテキサス州王者として活躍。引退後はジョー・ガンサーと共にニューオリンズに住み、1980年代にはニューオリンズの『パット・オブライエン』でホステスとして働く。自分も大学時代に何度か飲みに行ったが、1990年代の話なのでもういなかったのだろう。晩年はアラバマ州ガーデンデールで過ごし、2001年に喉頭癌で他界。
一方バークは、ウルフやNWAの陰謀により活躍の場を失うこととなり、バークが拠点としていたカリフォルニア州も女子選手の試合が禁止されていたため、ネバダ州やケンタッキー州の一部で世界王座を名乗る程度となった。新たな活躍の場を求めて1954年11月には他数名の女子選手達と共にアジア遠征を敢行。初来日を果たした後、香港とフィリピンも巡業した。翌年多くの女子プロレス団体が結成され、結果的にバークが日本に本格的に女子プロレスを定着させるきっかけとなった。

日本では前年、既に日本プロレスが発足していたが、あくまでハワイのアル・カラシックの傘下だというNWA側の認識だった。この女子選手達による遠征の直前、カラシックはNWA本部に、「彼女達はこれまで自分が築き上げてきたテリトリーを破壊するつもりだ。」といった内容の手紙を出している。また同じ頃、太平洋岸北西部のプロモーターだった元世界ライトヘビー級王者テッド・サイも元世界ヘビー級王者ジム・ロンドスと共に日本進出を企んでおり、出場選手を集めようとしていたが、ここでもまたNWAが各選手に対して非NWA系のプロモーターであるサイやロンドスの要請を断るように指示を出し、結果日本遠征は企画倒れとなった。
北米において絶対的な権力を持っていたNWAだが、その分バークやサイを含め多くの敵を作る結果となり、1955年になると米国司法省から独占禁止法違反の疑いで捜査される。翌1956年には同意判決の基、かろうじて解散は逃れたものの、違反になる活動を禁止されることとなった。これによりNWAに加盟する利点が半減し、1955年には40人近くいた会員が10人以上減った。
バークとバイヤーズの試合以後も2人は同時に世界王者を名乗り続けていたが、1956年9月には3人目の世界王者が誕生する。3年前にバイヤーズが優勝したのと同じ場所であるメリーランド州ボルティモアにて再び新王座決定トーナメントが開催された。だが、この時プロモーターのエド・コントスに協力していたのはビリー・ウルフではなく、1952年末から近隣のワシントンDCのプロモーターとして着実に勢力を増していたビンス・マクマホンだった。ジュディ・グレーブルを破ってトーナメントに優勝したのはスレイヴ・ガール・ムーラ。かつてウルフに嫌気が差しジャック・フェッファー派に鞍替えしたリリアン・エリソンだ。同年末『奴隷女』は『素敵』へと名を変えファビュラス・ムーラとして活躍し始める。
同じく1956年、ミルドレッド・バークが引退。以後しばらくプロレス界から身を引いていく。
ムーラ栄冠から間もない1956年10月には、バイヤーズがウルフの息子G・ビルと離婚するが、ビジネス面でのウルフとの関係は継続した。また、ウルフと離婚していたネル・スチュアートも、あくまで選手として2年ぶりにウルフ派に復帰。
1957年にはウルフも、業界の独占という特典を失ったNWAから脱退する。既にNWAの中には、ウルフ派のバイヤーズではなく、NWAに残留することとなるマクマホン派のムーラを世界王者に認定する会員プロモーターもおり、「バイヤーズ引退後、新王座決定トーナメントで優勝」や「ワシントンDCでバイヤーズを破り王座奪取」などといった、例によって事実とは異なる適当な触れ込みでムーラが各地で王座を防衛していた。
翌1958年、ついにバイヤーズもウルフと袂を分かち、テキサス州エルパソに拠点を移し、翌年同地の元プロモーター、サム・メナッカーと結婚。同じ頃、スチュアートもルイジアナ州ニューオリンズの『本命』ジョー・ガンサーの元へと戻っていった。
その後も細々と活動を続けたウルフだが、1963年3月、バージニア州リッチモンドで試合を終えた後、選手達と共にオハイオ州へ戻る途中に寄ったレストランで心臓麻痺を起こし、66歳で他界。
同じく1963年、メナッカーと共に車で移動中だったバイヤーズは交通事故に遭い右足を負傷、引退を余儀なくされた。バークとバイヤーズが引退したことにより、ムーラが北米においては真の世界王者として君臨することとなった。

交通事故による引退後、離婚と再婚を繰り返すが7度の結婚は全てうまくいかなかったという。最終的にはテキサス州ヒューストンで不動産業者として働き、1998年7月26日肺炎のため76歳で他界。
1956年の引退後、しばらくプロレス界から遠ざかっていたミルドレッド・バークだったが、1962年に入ると若手選手の育成に励む。1965年9月、カリフォルニア州でついに女子選手の試合が解禁されると間もなくバークはムーラに提携を申し出るが、既に米国女子プロレス界の頂点に立っていたムーラにとって、もはやバークやその教え子達を必要とすることなどなかった。バークは、ワールドワイド・ウィメンズ・レスリング・アソシエーション(WWWWA…?)という団体を設立し、教え子達との興行を目論んだが、さすがにマクマホン他多くのプロモーター達の協力を得ていたムーラには歯が立たず、カリフォルニア州周辺で細々と活動する程度だった。また、ネバダ州ラスベガスで女子選手のみの興行を開催すると、サンフランシスコ地区のNWA会員ロイ・シャイアーから殺人予告で脅迫されたこともあったという。
そんな状況の中、バークにとって最も大きな収入源の1つは、教え子達の日本への派遣だった。WWWWA世界王座が正確にいつ設立されたのかは不明だが、日本のプロレス関係の書物では1970年8月にロサンゼルスで開催されたトーナメントにマリー・バグノンが優勝したということになっている。実際には前月バークは数名の教え子達をカナダ西部のスタンピード・レスリングに派遣しており、その中でバグノンが既に世界王座を防衛していることから、おそらく7月に特に王座決定戦もなく認定されたのではないかと思われる。

📷 – Rasslin’ History 101
同年秋バグノンは、バークから数えて第2代ワールド・ウィメンズ・レスリング・アソシエーション(WWWA)世界王者として来日し、京愛子に敗れ王座を明け渡す。以後、同王座は全日本女子プロレスに定着し、同団体の看板選手権だけではなく、どの興行でも女子の試合は中堅でしか扱われない米国や、1979年末まで世界王座を認定してなかったメキシコのことを考えると、実質上世界最高峰の女子選手権となる。
1977年秋、バークは久々に来日し、11月1日にWWWA世界王者マキ上田と挑戦者ジャッキー佐藤との選手権試合で特別ジャッジを務めた。結果は60分時間切れだったが、バークの判定により佐藤が勝利、ビューティー・ペアのパートナーからバーク縁の世界王座を奪取した。
だが、その全女も1979年頃からは外国人選手の派遣をムーラに依頼するようになり、モンスター・リッパーのように来日し続けたバーク派の選手もいたが、レイラニ・カイやジュディ・マーティンなど頻繁に参戦する大半の外国人選手はムーラの教え子達だった。
NWA世界女子選手権: ファビュラス・ムーラ [王者] vs ナンシー久美
NWA本部が正式に認定していなかったにも関わらず、NWA王座とされていた数多くの例の1つ。
関係者達の間では、選手としてのムーラの質はバークには全く及ばず、むしろムーラが長年牛耳っていたことが米国女子プロレス界の低迷を招いたという意見も多い。事実、バーク全盛期には男子中心の興行で女子選手がメインイベントで対戦することもあったようだが、ムーラの時代の女子の試合というと、男子の試合の合間の余興程度という扱いを超えることがなかった。
1980年代に入るとバークの健康状態は悪化し、1989年2月14日脳梗塞により73歳で他界。
1980年代前半には、父親からWWFを買収したビンス・マクマホン・ジュニアがそれまでの地区制度を無視し全米侵攻を開始。一部の会員プロモーター達から『NWA世界王者』とされてきたムーラもWWF世界王者としてそれまで以上に全米的な知名度を得ることになる。1987年に元AWA世界王者シェリー・マーテルに王座を明け渡すと一度WWFからは退くが、約12年後の1999年秋にメイ・ヤングとの76歳コンビで再びWWFに登場し、数年間WWFおよびWWEで活躍した。WWEはまるでこの2人こそが女子プロレスの先駆者であるかのような紹介を続け、更には2004年にリリースされたドキュメンタリー『Lipstick and Dynamite』の中でも2人揃ってバークの価値を落とすようなコメントをしており、バークは事実上ムーラやWWEによって歴史からその名を抹消されそうになっていた。
ステージからテーブルへのパワーボムを受ける、前日77歳の誕生日を迎えたばかりのメイ・ヤング。
ムーラは2007年11月2日に84歳、ヤングは約6年後の2014年1月14日に90歳でそれぞれ他界、プロレス人生を全うした。
だが21世紀に入ると、オンラインで入手可能な過去の情報も豊富になり、昔のプロレスに興味を持ったり歴史研究に深く携わるファンの数も増えていき、多くの人々の間でプロレスの歴史が見直され、バークの偉業も改めて認識されるようになる。また、今ではすっかり弱小化したNWAだが、2019年に新調された世界女子王座のベルトは、かつてバークが保持していたものを基としたデザインで、実際『ザ・バーク』と呼ばれている。2021年にはビリー・コーガンNWA社長がバークが実際に保持していたベルトも入手し、8月に開催された女子選手のみのPPV大会でリング上から披露した。
バークにより全日本女子プロレスに持ち込まれてきたWWWA世界王座は1990年にブル中野が奪取。中野は1992年にメキシコのCMLL、そして1994年にはWWFと、プロレス3大国において最高峰の世界王座を奪取するという快挙を達成し、事実上女子プロレス界の頂点に君臨した。
全女は2005年に閉鎖し、『赤いベルト』として親しまれたWWWA王座も翌年封印されるが、その後も日本は世界中のファンに女子プロ王国として知られ続けている。また、現在世界中のマニア達の間でも人気のあるスターダムが認定するワールド・オブ・スターダム王座も、ベルトの皮にはかつてのWWWA王座と同じ色が使われており、これもまた『赤いベルト』と呼ばれている。
一方、日本とは違い全国的に大規模な女子プロレス団体が存在したことのない米国においても、2019年にWWEが開催したレッスルマニア35で、ついに初めて女子選手達のみによるメインイベントが82,265人の観客の前で行われた。長年の女子選手達に対する価値観や認識が大きく変化していることを証明するかのような出来事だった。
WWE世界女子選手権統一3ウェイ戦: ロンダ・ラウジー[RAW] vs シャーロット・フレアー[スマックダウン] vs ベッキー・リンチ
その昔、米国中西部のレストランで働く十代のシングルマザーが、男尊女卑の激しい第二次世界大戦前後のプロレス界で踠き苦しみながらも夢を掴んでいった。
男性プロモーター達の権威や勢力と戦い続け、多くの女子選手達に対する門戸開放の礎を築いたミルドレッド・バークの遺志は、今もなお日米の女子プロレス界で受け継がれていると言っても過言ではない。
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