米国南部に位置し、50州で16番目に人口の多いテネシー州。東西に広く、ケンタッキーやアラバマなど8つの州に囲まれている。海や大きな湖はなく、東のアパラチア山脈と西のミシシッピ川に挟まれている。州都は1847年以来ナッシュビルで、長年州内ではメンフィスに次ぐ第二の都市だったが、2017年遂にメンフィスの人口を超え最大都市となった。1940年代から1970年代までの間、ニック・グラスはナッシュビルを本拠とし、ナショナル・レスリング・アライアンス(NWA)会員ロイ・ウェルチと共にアラバマやケンタッキー、アーカンソーといった南部一帯を牛耳った。ナッシュビルやメンフィス以外でも、ノックスビル、チャタヌーガ、ジャクソンなどでプロレスの興行が盛んで、1974年にはノックスビル周辺の地域がグラス派から独立する程だった。
以前、『世界女子選手権(前編および後編)』を書いたが、元はといえば今回の投稿について調べていたところ、テネシーだけでは収まり切れないくらい面白い話題が満載だったので予定を変更したという事実がある。今回改めてテネシーを中心に書いてみるが、特に前半は前述の投稿と重複する部分があることをご了承いただきたい。
20世紀初期、女子プロレスはまだ男子プロレス以上に『見せ物』という扱いが強かったせいか、あまり統制もとれていなく、『世界』王者も乱立し、そのうえ男子選手との試合も多かった。
テネシー州では1912年夏、メイ・ハーディンが世界王者を名乗っていた。だが、男子選手との試合が決定すると、ナッシュビル市長が「道徳に反する」という理由でハーディンの出場を中止させた。
1924年春、州東部に「昨年の感謝祭の日、コラ・リビンストンから奪取した」という触れ込みでバージニア・マーセローが世界王者として登場(実際には、感謝祭当日リビングストンはマサチューセッツ州ボストンでマーセローを破り王座防衛)。だがマーセローもまた、男子選手との対戦が多かったようだ。その後もマーセローはイリノイ州やオハイオ州などで1920年代の大半を世界ミドル級王者として活躍した。
1929年10月、ケンタッキーとの州境に面したクラークスビルの新聞に、近日参戦として世界王者メイ・スタインが紹介される。「2月にマディソン・スクェア・ガーデンでオリー・チャイコルスキーから奪取した」ということだったが、別の地区の新聞では、アイオワ州デモインで奪取したとなっていた。1932年6月8日にはナッシュビルで元王者テディー・マイヤースを破り王座を防衛。各地を転戦し、1935年3月にも再びノックスビルに王者として登場した。

1920年代末から1930年代中期にかけて、テネシーだけではなくインディアナやオハイオといった中西部およびアラバマやフロリダなどの南東部でも王者を名乗っていたことから、それなりに活躍した選手だと思われる。
1934年になるとクララ・モーテンソンが「1932年にカンザス州トピカでバーバラ・ウェアから奪取した」として世界王座を主張。ミズーリやルイジアナ、テキサスなど各州を転戦し、1936年4月6日にはクラークスビルでエベレット・ラングストンに圧勝し王座を防衛。
その頃、ミズーリ州ライトヘビー級王者ビリー・ウルフは女子選手達を養成していた。ウルフに入門したミルドレッド・ブリスは間もなくウルフと結婚、『ミルドレッド・バーク』をリングネームに頭角を現していく。
1936年12月、テネシー州と隣接するアラバマ州の北部で世界王者クララ・モーテンソンとバークとの間で抗争が勃発。年が明けると2人の激突はテネシーやケンタッキー、更にはインディアナでも続き、引き分けやモーテンソンの勝利による王座防衛が繰り返されるが、1月28日チャタヌーガでバークがついに王座を奪取。約2週間後の2月11日には同じくチャタヌーガでモーテンソンがバークから王座を奪回するが、4月19日に再びモーテンソンが敗れ、本格的にバークの時代に突入する。

世界女子選手権: クララ・モーテンセン [王者] vs ミルドレッド・バーク
📷 – NWA1948.com
バークを中心に米国の女子プロレス界を牛耳ることになったウルフは、1949年12月、NWA(アライアンス)への加盟が承認された。その結果、NWAでもバークを世界女子王者として認定。だが、教え子達と関係を持ち続けていたウルフと妻バークの関係は次第に悪化し、1953年1月には正式に離婚。その問題に嫌気がさしたのか、同年9月の年次総会でNWAは本部としての女子の試合の主宰、および正式な女子王座の認定を停止することを発表。
NWAのブラックリストに載せられたバークは世界王座を主張し続けたが、ウルフは1953年4月、メリーランド州ボルティモアで新王座決定トーナメントを開催。決勝ではビリーの息子の妻ジューン・バイヤーズが、ビリーの愛人で後に妻となるネル・スチュアートを破り優勝。バイヤーズは1954年8月26日、ジョージア州アトランタでバークと対戦。試合はバイヤーズにより1本勝ちのためバーク防衛となったにも関わらず、後日テネシー州を含む南東部一帯ではバイヤーズが勝利だと発表される。バイヤーズは10月26日にナッシュビルでも防衛。以降バークは西海岸を中心に限られた地区で王座を防衛することとなる。ウルフ、バーク、バイヤーズを取り巻く一連の問題については前述の『世界女子選手権(前編および後編)』を参照していただきたい。
1956年9月にはメリーランド州ボルティモアで再度王座決定トーナメントが開催され、スレイヴ・ガール・ムーラが優勝。同年末ファビュラス・ムーラにリングネームを変え活躍し始める。テネシー州では引き続きバイヤーズが認定されていたが、1959年夏、「バイヤーズが返上し空位となった王座を30人以上参加のトーナメントに優勝し奪取」という触れ込みでムーラがナッシュビルに登場。8月18日、パット・ライダを破り同地区デビューを果たした。更に翌1960年1月になると州東部のノックスビルにも登場するが、この時は「比較的楽にバイヤーズを破り王座を奪取」とされていた。
長期政権を築いたムーラだったが、全米やカナダを転戦していた割には、テネシー州内での防衛戦は少なかった。1970年代後半から少しずつメンフィスやノックスビルの試合に出場し始めたようだが、1983年10月にメンフィスでジュディ・マーティンを相手に王座を防衛すると、翌1984年夏にはWWF専属となり、長年保持していた世界王座もWWF認定となった。
1986年2月、カリフォルニア州サンノゼでバトルロイヤルに優勝したデビー・コムズがNWA世界女子王者として認定される。NWAのサンフランシスコ地区は1981年1月に既に閉鎖しており、以降サンフランシスコ周辺ではAWAが興行していたが、この時サンノゼで開催されたのはハワイを拠点としたポリネシアン・パシフィック・チャンピオンシップ・レスリングによる大会で、プロモーターは夫ピーター・メイビア亡き後団体を受け継いだNWA会員リア・メイビア。ザ・ロックことドウェイン・ジョンソンの祖母だ。

母コラは初代NWA南部および元US女子王者で、2018年にはレガシー部門でWWE殿堂入りを果たした。
娘デビーはNWAとUSWAの女子王座をそれぞれ2度ずつ奪取。
コムズは同年6月、NWA世界王者としてテネシー州にも登場。6月21日にナッシュビル、30日にメンフィスでデスピナ・マンタガスを相手に防衛した。ちなみにマンタガスといえば、当時同地区ではターザン後藤が佐藤昭雄と組んでインターナショナル・タッグ王座を保持していた。
この頃になると、ジム・クロケット・プロモーションズが『NWA』の名で全米で興行をしており、1987年に入ってもNWA王座を保持していたコムズだったが、クロケット派の興行で王座を防衛したという記録は今のところ見当たらない。
またコムズは1987年5月から6月にかけてWWFにも参戦するが、連日ムーラの王座に挑戦し敗れる程度の扱いだった。同年10月と11月にも同様に、ムーラからWWF王座を奪取したシェリー・マーテルへの挑戦者として試合をした。
1992年3月2日、メンフィスを本拠としたUSWAが初代女子王座決定トーナメントを開催。決勝ではダーティ・ホワイト・ガールを破ったミス・テキサスが王座を奪取。後にWWF世界王座を奪取し、WCWでも活躍したジャクリーン・ムーアだ。
1994年4月、当時USWA王座を保持していたローレン・ダベンポートが団体を離脱したため、デビー・コムズが王座を授与されたが、特にNWA王者として紹介されることはなかったようだ。7月には元AWA世界王者キャンディ・デバインに敗れるが、選手権試合ではなかったという説もある。
USWA女子選手権: ミス・テキサス [王者] vs ブランディ・ワイン
※ 動画の題には26日とあるが、実際の収録は25日。
1994年夏、ジム・クロケット・ジュニアが『NWA』の名を使いプロモーターとしての活動を再開。ペギー・リー・レザーを世界女子王者に認定するが、7月26日チャタヌーガ郊外のイースト・リッジでバンビがレザーを破り奪取。バンビは同年10月にクロケットがテキサス州ダラスで定期興行を始めてからも王者に認定され、翌1995年5月の団体閉鎖以降も同年秋まで世界王者を名乗り続けた。
1995年11月には、ターシャ・シモーネがミス・テキサスからUSWA王座を奪取。また翌1996年1月にはデビー・コムズが覆面を被り『レディ・サタン』としてテキサスから王座を『奪回』した。
テキサスはUSWA王座を合計14回奪取するが、1996年11月、ターシャ・シモーネがテキサスを破り2度目の王座栄冠を果たすと、同団体は1年後の1997年11月に閉鎖。
この間もデビー・コムズはNWA世界王座を保持し続けており、1996年5月9日、テネシー州東部のジョンソンシティでマリア・ホサカに敗れるが翌日フォール・ブランチで奪回。1996年10月、NWAは団体の再編成に伴い世界ヘビー級以外の全ての王座を空位としたため、公式的にはコムズも王座を剥奪されたのだが、1998年5月の時点でもNWA世界王者を名乗っていたようだ。
2000年10月14日、ナッシュビルでNWA創立52周年大会が開催。復活世界女子王座決定戦も行われ、ストロベリー・フィールズが日本でもお馴染みのレイラニ・カイを破り王座に君臨するが、翌月負傷のため返上。8月にカナダのバンクーバー地区で再度決定戦が行われ、マディソンがバンバン・バンビに勝利。
WCWがWWEに買収された翌2002年、かつてメンフィスを本拠にCWAやUSWAを運営したジェリー・ジャレットが、息子のジェフと共にトータル・ノンストップ・アクション・レスリング(NWA-TNA)を旗揚げ。毎週水曜日にナッシュビルで生中継と週末放送用の収録が開催された。TNAがNWAに使用料を払うことを条件に、NWA世界ヘビー級、世界タッグ王座を管理し、NWAブランドの知名度を向上させるという協力関係だった。女子選手権は『ミスTNA』の名称で、NWAとは別に独自に認定したものの、王座決定戦が行われた2002年6月から11月までの僅か半年で封印。
NWA52周年大会では惜しくも敗れたレイラニ・カイだったが、2003年3月12日にはTNAの大会でマディソンを破りNWA世界王座を奪取。TNAでNWA女子選手権試合が行われたのは、これを書いている時点でこの時だけである。カイは2004年6月、幾度にも及ぶ無断欠場が理由で王座を剥奪される。一方、TNAは2004年9月にテレビ収録場所をフロリダ州オーランドに移し、2007年には女子王座を新設するが、世界王座ではなく『ノックアウト選手権』という名称となった。
NWAは2005年10月8日、再びナッシュビルで57周年大会を開催。世界王者レクシー・ファイフがレイラニ・カイの弟子クリスティ・リッチと元USWA王者ターシャ・シモーンと3ウェイで対戦、現地在住のリッチが勝利し王座を奪取した。リッチは2007年1月、ナッシュビル郊外のレバノンでミスシフに敗れるまで、約1年4ヶ月王座を保持しナッシュビル周辺で防衛した。
2010年7月、レバノンでターシャ・シモーンがミスシフからNWA世界王座を奪取。シモーンは通算2年王座を保持するが、2012年10月レバノンでケイシー・カーライルに敗れ、以後同王座はテキサス州中心に防衛されることになる。同年8月、テキサス州南部を本拠にしたブルース・サープが裁判でNWA商標の権利を勝ち取り、同団体の実権を握ったことによる王座移動だということは明確だ。

USWA王座に2度、NWA世界王座に3度君臨。
NWA世界王座は2016年9月、テキサス州シャーマンで元WWF王者ジャズが奪取。翌2017年5月、ロックバンド『スマッシング・パンプキンズ』の中心人物で元TNA社長のビリー・コーガンがサープからNWAの商標を買収した後も引き続き認定され、2018年10月28日にナッシュビルで開催されたNWA70周年大会ではペネロペ・フォードを相手に防衛するが、2019年4月、負傷を理由に返上。
2017年、TNAはカナダのアンセム・スポーツ・エンターテイメントに買収されインパクト・レスリングに改称。主にフロリダ州オーランドでのテレビ中継が続いたが、会社の本拠はナッシュビルにあり、2020年のCOVID-19によるパンデミックの際にも主にナッシュビルから試合が中継され、ノックアウト王座も同地で何度か移動した。
2021年6月にカミールがNWA世界王座を奪取すると、テネシー州内でもNWA以外の団体を含め頻繁に同王座が防衛されるようになった。またNWAは、恒例となったジョージア州アトランタでのテレビ収録以外にも、ケンタッキー州とはいえテネシー州との境に面しナッシュビルからも車で1時間弱のところにあるオークグローブでの興行が増えている。2022年3月30日に開催された『クロケット・カップ2022』に続き、6月11日には現体制になって初のノックスビル大会が決定し、世界女子王座の防衛戦も予定されている。
ヘビー級やタッグ同様、今後もインパクト・レスリングやNWAの女子王座がテネシー州内で頻繁に防衛されることも予想される。
資料元:
- Wrestling-Titles.com
- The Tennessean (ナッシュビル)
- Commercial Appeal (メンフィス)
- The Knoxville Sentinel
- The Daily Times (チャタヌーガ)
