ダラス角力史 – 第拾七章

1980年代後半

カテゴリー: ダラス角力史

1985年1月時点での選手権保持者:

テレビ中継を通して、テキサスから遠く離れたニューイングランド地方だけではなく中東でも人気を得ていたWCCWは、1985年8月イスラエルに遠征。中東ヘビー級王座決定トーナメントも開催され、ツアー最終日である8月7日の決勝でジノ・ヘルナンデスを破ったケビン・フォン・エリックが初代王者に認定された。

セミファイナルでヘルナンデスに敗れたマイク・フォン・エリックは肩を負傷。兄達ほど肉体的に恵まれていなかったマイクはデビュー以来肩を痛めることが多かったと言う。帰国後の8月中旬、手術が原因で毒素性ショック症候群に侵され、一度は医師から家族に「おそらく助からない」とも告げられたが、奇跡的に命を取り留め回復に向かう。

同じく1985年、WCCWは新日本プロレスと業務提携を結んだ。10月4日の札幌大会ではケビン・フォン・エリック & ケリー・フォン・エリックが藤波辰巳 & 木村健吾の持つWWFインターナショナル・タッグ王座に挑戦。両者リングアウトで奪取には至らなかったが、鉄の爪兄弟の新日初登場に観客は沸いた。尚、全米侵攻真っ只中のWWFは同月末で新日との提携を終了、10年間の協力体制に終止符を打った。

WWFにより地域制度が崩壊しようとしていた1980年代中期、WCCWが加盟していたNWAも大きく揺らいでいた。1985年、ミッドアトランティック地区のジム・クロケット・プロモーションズ(JCP)がNWA内のジョージア地区セントルイス地区を合併。1980年から2年間NWAの会長を務めたジム・クロケット・ジュニアは、1985年の総会で2度目の就任を果たした。秘蔵っ子とも言える世界ヘビー級王者リック・フレアーをほぼ独占し、加盟地区での防衛戦は減る一方だった。WCCWのテレビ中継では、毎回冒頭でリングアナウンサーが「全試合はナショナル・レスリング・アライアンス公認によるものです。」と説明していたが、1985年8月からはNWAではなく「ワールドクラス・レスリング・アソシエーション(WCWA)公認」になっていた。

1984年9月の悪役転向以降、クリス・アダムスはジノ・ヘルナンデスと『ダイナミック・デュオ』を結成。ヘルナンデスが1982年サンアントニオ地区でタリー・ブランチャードと組んでいた時と同じチーム名だ。ダイナミック・デュオは1985年になるとテレビ中継の中でケビンとケリーを挑発しながら、ブライアン・アディアスやスコット・ケーシー、アイスマン・キング・パーソンズらの髪を切るという行動に出る。その決着をつけるため10月6日、フットボール場であるコットンボウルに2万6千人の観衆を集め開催された『コットンボウル・エクストラバガンザ』のメインイベントでは、両チームによる敗者髪切り戦が組まれ、鉄の爪兄弟が勝利。その場から逃げようとするヘルナンデスをタックルで制止したのは、末弟のクリス・フォン・エリックだった。負けたアダムスとヘルナンデスはそのままリング上で丸刈りに。

1985年10月6日
第2回コットンボウル・エクストラバガンザ

またこの頃、オレゴン州ポートランドを中心とする太平洋岸北西部地区(PNW)では、一人の新鋭選手が台頭していた。ダラスとフォートワースの間に位置するアーリントン出身のウィリアム・ケビン・ヴォーンだ。『リッキー・ヴォーン』のリングネームで、1985年2月に現地のトップ選手であるビリー・ジャック・ヘインズと組んでタッグ戦に出場するという大抜擢のデビュー戦で勝利を飾り、5月にはヘインズと組んでエド・ウィスコスキー(後のカーネル・デビアース) & ケンドー・ナガサキからPNWタッグ王座、そして8月にはマイク・ミラーを破り同ヘビー級王座も奪取した。

ダラス地区出身のヴォーンがPNWでデビューした背後には、フリッツ・フォン・エリックの思惑があった。デビッドの死去に続くマイクの長期欠場の中、ケビンとケリーはそれまで以上に多忙になり、新しいスターの必要性を強く感じていたのだ。ダラスから離れた場所で経験を積ませることにより、あたかも以前から存在していた選手かのようにヴォーンを地元に呼び戻した。ただし『リッキー・ヴォーン』でもなければ本名でもなく、フリッツのプロレス上の兄弟ワルドー・フォン・エリックの息子『ランス・フォン・エリック』としてだ。つまり、フリッツの甥で、ケビンやケリーの従弟という触れ込みでのダラス地区登場だったのだ。しかも10月28日のフォートワースでのWCCW初戦では、なんとリック・フレアーの保持するNWA世界ヘビー級王座に挑戦。ノーコンテストに終わったがPNWでのデビュー戦に続く大抜擢だった。しかし皮肉にもこれがWCCWにおける最後のNWA世界選手権試合となる。

鉄の爪兄弟を相手に悪役人気を集めていたダイナミック・デュオは、リユニオン・アリーナに14,000人を集めて行われたクリスマス興行で、ケビン & ケリーを相手にアメリカン・タッグ王座を防衛するが、試合中、攻撃され続けるアダムスとの交代をヘルナンデスが拒否し続けたことが原因で、仲間割れとなった。後に2人で保持していた王座も当然のごとく空位となった。また同大会では藤波辰巳がマスクド・デーモン、アントニオ猪木がスティーブ・ウィリアムスをそれぞれ破った。メインイベントではライツアウトマッチでケビン & ケリー & ランスがAWAからの本格的復帰を果たしたファビュラス・フリーバーズを破った。

WCCW史上最も激動の年だといわれる1986年、クリス・アダムスとジノ・ヘルナンデスはトップヒール同士による抗争を繰り広げることが予想されていた。1月27日、フォートワースで2人の間で敗者髪切り戦が行われるが、アダムスの目を攻撃したヘルナンデスの反則負けとなった。結果的にこれがヘルナンデスにとって最後の試合となった。2月4日、ダラスの自宅で死体で発見。死因はコカインによる中毒死だとされる。WCCWの不運はエリック一家だけに限られているわけではなかった。

同じく2月、フリッツ・フォン・エリックはかつて会長も務めたNWAからの脱退を発表。JCPによる世界王座の独占、そして前年夏から既にWCWAの名称が使われ始めていたのもあり、時間の問題だというのが周囲の見解だったようだ。アメリカン・ヘビー級王者リック・ルードが初代WCWA世界ヘビー級王者に認定された。

1986年2月20日の記者会見では、WCCWでブッカーを務めるケン・マンテルがアメリカン王座を世界王座に認定すると発表。

4月には、ジノ・ヘルナンデスによる目の負傷により欠場していたクリス・アダムスがベビーフェースとして復帰。

同年5月、デビッド・フォン・エリック他界以来フリッツの『相談役』的な立場だったケン・マンテルが突如WCCWを離脱。テキサスに隣接するオクラホマやルイジアナといった中南部地区のミッドサウス・レスリング・アソシエーション(MSWA)をユニバーサル・レスリング・フェデレーション(UWF)に改称し全米進出を目論んだビル・ワットに引き抜かれたのだ。フリッツだけではなく選手達からも信頼を得ていたマンテルに続き、ファビュラス・フリーバーズ、アイスマン・キング・パーソンズ、スカンドル・アクバら他多数がUWFに移籍した。

大量離脱がWCCWを襲って間もない6月4日、ケリー・フォン・エリックの運転するオートバイが駐車してあったパトカーに接触。裸足で運転していたケリーの右足がパトカーの上のライトのラックに引っ掛かり、危うく足が切断されるところだった。手術により足の切断は免れたが、しばらくの間固定することが必要となり、長期欠場を余儀なくされた。

ケリー欠場中の7月4日、観衆11,500人を集めたリユニオン・アリーナで、マイク・フォン・エリックが約1年ぶりに復帰。兄ケビンと『従兄』ランスと組み、ブッチ・リード & バズ・ソイヤー & マット・ボーンを破った。だが、病気の後遺症から、記憶力も衰え周りとの協調も困難になっていたことは周囲の目にも明らかだった。同大会ではクリス・アダムスがリック・ルードから世界ヘビー級王座を奪取。アブドーラ・ザ・ブッチャーはグレート・カブキを破りテキサス州ブラスナックル王座を奪取するが、ブルーザー・ブロディと対戦予定だったブラックジャック・マリガンが欠場したため、ブッチャーが代打でブロディと対戦、両者反則で引き分けた。

暗いニュースが続くWCCWだったが、6月にはUWFからディンゴ・ウォリアーが移籍。9月には新設WCWA世界タッグ王座決定トーナメントに『ソッコ』なる選手と組んで出場。準決勝まで駒を進めるが、クリス・アダムス & ランス・フォン・エリックに敗れる。決勝ではバズ・ソイヤー & マット・ボーンがアダムス & ランスを破り初代王者に認定。ディンゴは当初、パーシー・プリングル三世をマネージャーに悪役として活躍していたが、9月頃同じくプリングルをマネージャーとしていたソイヤーおよびボーンと仲間割れ。11月にはランスと組んでボーン & ミスター・ジーを破り世界タッグ王座を奪取した。ディンゴは約1年間WCCWで試合した後、WWFに引き抜かれ、アルティメット・ウォリアーとして活躍することになる。

7月27日にはビル・ワットのUWFがダラスに初進出。リユニオン・アリーナでJCPとの合同興行を開催。セミファイナルではダスティ・ローデスがリック・フレアーを破りNWA世界ヘビー級王座を防衛。メインイベントではワット自らロード・ウォリアーズと組みファビュラス・フリーバーズに反則勝ち。だが、約2万人収容の会場に集まったのはわずか1万人だった。

9月には世界ヘビー級王者クリス・アダムスがUWFに移籍。「同月15日にロサンゼルスでアダムスを破った」という発表のもとブラック・バートが王者に認定されるが、約1月後の10月12日ケビン・フォン・エリックに敗れ王座を明け渡す。

WCCWが大きな打撃を受けた1986年はテキサス州が石油不況に陥った年でもあり、州全体において失業者が増え、プロレスの観客動員にも大きな影響を及ぼした。ダラス周辺だけで数千人が失業するという過酷な状況の中、10月12日に開催された『第3回コットンボウル・エクストラバガンザ』は、前年の観客数の4分の1を下回る5,835人という散々な結果だった。

WCCWの衰退が続く中、主要選手だったケリー・フォン・エリックは復帰を急ぎ、医師の反対を押し切って1987年2月2日フォートワースでブライアン・アディアスと対戦。2人も注意を払いながらの試合運びだったが、ケリーは再び右足を負傷し、その結果切断が必要となった。

ケリーの足切断は、既に闘病中だった弟マイクにも精神的な負担がかかっていた。4月11日早朝、弟マイクが飲酒運転ならびに大麻所有で逮捕。保釈金が払われたため同日午後には釈放されたが、翌日以降行方不明だと通報される。16日朝、ルイスビル湖付近で死体で発見。保安局の発表によると死因は自殺で、推定時刻は遅くても逮捕の翌日だったという。

1987年4月3日
マイク・フォン・エリック最後の試合

同じく4月には、JCPがビル・ワットのUWFを買収。それを機にUWFのブッカーだったケン・マンテルもダラス地区に復帰するが、WCCWではなく、なんとフォートワースでワイルド・ウェスト・レスリング(WWW)を旗揚げした。UWFからWCCWに復帰する選手もいれば、そのままマンテルを追ってWWWに参戦する選手もいた。長年ダラスで実況を務めてきたビル・マーサー、そしてランス・フォン・エリックもWWWに移籍。WCCWでノード・ザ・バーバリアンと抗争中のランスだったが、フリッツにギャラのつり上げを交渉したところ失敗に終わったという。だが同じ姓は使えないため、『ファビュラス・ランス』としての新団体参戦だった。これに対してフリッツは地元のスポーツニュース番組で、ランスが実は甥ではなく、「PNW地区のリッキー・ヴォーンという選手」だと告白。プロレス入りする前にウェイトリフティングで好成績を残していたため、既にダラス地区では多少顔が割れていたと言われるヴォーンだったが、まだ業界の『ネタバレ』は御法度という時代におけるフリッツ自らによる告白は多くのファンを失望させ、WCCWの衰退に拍車をかける要素となった。

マイクの自殺、ケリーの欠場、更にはランスの離脱により鉄の爪一家で唯一選手として活動中だったケビンも、当然のことながら好調だとは言えなかった。5月11日フォートワースでのテレビ収録で、8人タッグ戦の最中に突然リング上で失神。病院に運ばれ、間もなく退院したが、度重なる試合での頭部負傷とストレスによる結果だったそうだ。

10月にはケリー・フォン・エリックが復帰。早くも11月25日にはルイジアナ州シュリーブポートでケビンと組んでフランク・ランカスター & ブライアン・アディアスから世界タッグ王座を奪取。足の切断については極秘で、リングシューズを固定させての復帰だった。以降、何故かそれまで以上に動きがよくなったといわれるケリーだが、その一方で痛みは続き、痛み止めだけではなく更に強い薬に頼ることになる。

不運が続く中、フリッツは団体の売却を決意していた。11月後半、ケビンとケリー、そしてWWWを主宰していたケン・マンテルの3人がWCCWの新オーナーとなり、WWWもWCCWの傘下団体という形となったが、当然のことながらWWWで活躍中だったランスのWCCW復帰はなかった。

1987年のクリスマス大会では更にファンを心配させる『事件』が起きた。金網デスマッチで世界ヘビー級王者アル・ペレツに挑戦したケリーのセコンドに付いていたフリッツは、試合中何度もフリーバーズからの攻撃を受けていたが、控室に戻ろうとしていた際、突然通路で倒れ、そのままフリッツは救急車で運ばれることとなった。だが実は、観客動員に苦しむWCCWによる話題作りのための演出だった。もちろん公表はされなかったが、既に低迷にあった団体に更なる汚点を残す結果となった。

1988年、全米侵攻中のWWFに対抗するため、複数の団体による業務提携が開始し、既に10年近く提携していたAWAとテネシー州メンフィスのCWAにWCCWが加わることとなった。5月9日にはメンフィスでジェリー・ローラーがカート・ヘニングを破り長年追い求めてきたAWA世界ヘビー級王座を奪取。6月17日にはスポータトリアムにも登場しテリー・テイラーを破った。

7月中旬、WCCWはテレビ中継で、29日のテレビ収録でのブルーザー・ブロディのダラス地区復帰を発表。だが16日ブロディはプエルトリコで帰らぬ人となり、29日のメインイベントでカマラと対戦予定だったブロディの代打はケリーが務めた。

1988年夏からは武藤敬司がスーパー・ブラック・ニンジャとしてWCCWに登場。
映像は10月28日に行われた対ケビン・フォン・エリック戦だと思われる。

ケビンやケリーにはデビッドのようなビジネスに関するセンスがなかったらしく、WWFやJCPへの選手の流出を引き留め続ける中、団体の経営は悪化していく一方だった。1988年夏、ケリーの提案でWCCWは既に提携していたCWAのジェリー・ジャレットに買収を打診。同意したジャレットが団体の60%、ケビンとケリーがそれぞれ残りの20%ずつを所有することになった。

ジャレットは間もなくWCWA世界ライトヘビー級王者エリック・エンブリーをブッカーに任命し、ダラスWCWAとメンフィス『AWA』との抗争が勃発。10月23日にはメンフィスでジェリー・ローラーがケリーからWCWA王座を奪取するが、11月4日ダラスでケリーが奪回。

相変わらず業界内ではケリーの足切断は極秘とされていたが、11月12日ネバダ州ラスベガスでのAWAのテレビ収録で、ケリーはカーネル・デビアースと対戦。試合中、デビアースがケリーの右足を引っ張った際、リングシューズが脱げてしまい、その中には足ではなく靴下だけがあったという。ケリーはすぐに足をリングのエプロンで隠しリングシューズを履きなおした。団体側はこの事件を隠し続けたが情報紙などにより報道されたという。会場入りする時も試合後シャワーに入る時もリングシューズを履いていたケリーを見て、以前から不自然に感じる関係者達も多かったようだ。その後もケリーの現役中は足について公式な発表がされることはなかった。

12月9日、東京でケリーと藤波辰爾との間でWCWA世界およびIWGPヘビー級のダブルタイトル戦が実現。出血多量によるレフリーストップで藤波の勝利となったが、翌日藤波が裁定を不服としWCWA王座を返上、ベルトをケリーに返した。だがその3日後、ケリーは同様の理由で改めてWCWA王座を奪われることになる。

13日、イリノイ州シカゴでAWAがCWAおよびWCWAと合同でPPV大会『スーパークラッシュ III』を開催。AWA王者ジェリー・ローラーとWCWA王者ケリーとの間で世界ヘビー級王座統一戦が行われた。18分53秒、藤波戦と同様、出血多量によるレフリーストップでローラーが勝利、両王座を統一した。

1988年12月13日 イリノイ州シカゴ 『スーパークラッシュ III』
※ 世界王座統一戦は1時間50分35秒目あたりから。

だが、9,500人収容できる会場に集まったのはわずか1,672人。あくまで公式記録なので、実際には更に少なかったと思われる。PPVの収入も乏しく興行的には大失敗に終わった。殆どの選手達にギャラが支払われなかったといわれ、新統一世界王者ローラーも未支払いを理由にAWA地区での王座防衛を拒否。年が明けた1989年1月20日、AWAはローラーの王座剥奪を発表した。

AWA世界ヘビー級王座を剥奪されたジェリー・ローラーは改めて『統一世界ヘビー級王者』として新ベルトを授与され、WWFのハルク・ホーガンやNWAのリック・フレアーを「団体内での防衛しかしない、ただの企業王者」と批判し、幾つもの地区および団体で防衛している自分こそが真の世界王者だと主張。

PPVの失敗は更に大きな影響を及ぼした。WCCWを20%ずつ所有していたケビンとケリーは、やむを得ず残りの所有権もジェリー・ジャレットに売却。

この頃ダラスのテレビ中継では、スカンドル・アクバがWCCWの株の大部分を所有していると発表され、長年テネシーで悪役マネージャーとして活躍してきたトージョー・ヤマモトがWCCWの会長として紹介される。アクバとヤマモトは、ダラス地区の新ヒーロー、エリック・エンブリーと抗争を展開し、いつの間にかWCCWを看板としていた悪役軍団から団体を救うという目的で、8月4日の金網デスマッチで、エンブリーがトージョーの秘蔵っ子P・Y・チューハイと対戦。エンブリーが勝利し団体の権利を得る。

試合後、エンブリーはマネージャーのパーシー・プリングル三世と共に、長年スポータトリアムに掲げられてきたWCCWの旗を取り外した。以後、ユナイテッド・ステーツ・レスリング・アソシエーション(USWA)の名称で興行が続けられるが、実際には、団体買収の際に法的な行き違いがあり、ジェリー・ジャレットがケビンに告訴されていたのでWCCWの名称が使えなくなったというのが理由らしい。

1989年8月4日
スポータトリアムの象徴ともいえるWCCWの団体旗が外される瞬間。

小粒の中堅だったエリック・エンブリーだが、ブッカーになり自らを売り出すことにより『労働者階級の英雄』的な存在として人気を集め、鉄の爪兄弟やクリス・アダムスら長年ダラス地区でトップに君臨していた選手達がローラーやジェリー・ジャレットの息子ジェフ、ビル・ダンディ―らメンフィスの常連達に主役の座を譲りかける状態にはなったものの、動員数は上昇し、一度は失いかけていたスポータトリアムやテレビ中継も取り戻し、借金も間もなく払い終えたという。

一つの時代が完全に終焉を迎えるのは、実はこの後のことだった。

1989年12月末時点での選手権保持者:


資料元:


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