1908年4月、シカゴで王者ゲオルグ・ハッケンシュミットを破り、世界ヘビー級選手権を奪取したフランク・ゴッチ。
実は、試合の約2ヶ月前には既に、ハッケンシュミット戦後の引退をほのめかしていた。4月3日の試合直後にも同年冬の引退を発表し、早速明朝の新聞でも報道されたが、その後も何度か引退発表に続く撤回および復帰を繰り返し、挙句の果てには新聞にも、『ゴッチが毎年恒例の引退発表』と書かれる始末だった。「プロレスラーの引退なんて信用できない」という理論は、既に20世紀初期には始まっていたようだ。(笑)
だが1914年1月、ニューヨークのマディソン・スクェア・ガーデンで3月に開催予定されていたトーナメントへの出場依頼を拒否し、再度引退を表明したゴッチは、アメリカス (ガス・ショーンライン)とフレッド・ビールとの間で空位の世界王座決定戦を行うことを提案。3月13日、カンザスシティで2人は対戦しアメリカスが勝利し新世界王者として君臨するが、2ヶ月後の5月7日、カンザスシティでスタニスラウス・ズビスコに敗れる。同年秋、ズビスコはヨーロッパに戻り、米国における世界王座が自然と空位になってしまった。

1914年3月13日 カンザスシティ
世界ヘビー級王座決定戦: アメリカス vs フレッド・ビール
1915年1月、チャーリー・カトラーが米国ヘビー級王者ベンジャミン・ローラーを破り、翌月から『ゴッチが保持していた』を主張し始め、ニューヨークやシカゴ、ネブラスカ州オマハ、アイオワ州デモインなど広域に亘って認定される。だが同年7月、フランク・ゴッチが観戦する前でジョー・ステッカーが、カトラーを破り王座を主張。そしてこの後、王座が複数に分裂することになる。
1916年12月、マサチューセッツ州スプリングフィールドで行われた選手権試合で、試合中、殆ど動こうとしない挑戦者ジョン・オリンにしびれを切らしたステッカーが試合を放棄。当初、試合直後には王者を名乗っていなかったオリンだが、後に、ステッカーの試合放棄を理由に王座を主張。そして翌1917年5月にはシカゴで、なんとゴッチをレフリーとして選手権試合が開催され、エド・ストラングラー・ルイスがオリンを破り王座を主張。
一方『主流派』王座は、その前月、オマハでアール・キャドックがステッカーから奪取していた。
その後、ルイスの王座は、1917年6月に行われたウラデック・ズビスコとの試合が不明慮に終わり、更に複数に分裂。1918年2月、デモインで『主流派』王者キャドックがズビスコを破ったにも関わらず、ズビスコは多くの地区で王座を主張し続けたが、5月にはシカゴでルイスに敗れる。キャドックは6月、デモインでルイスにも勝利するが、混乱は収まらず、1919年3月にはニューヨークでズビスコがルイスを破り、『オリンが保持していた王座』を主張。最終的にはジョー・ステッカーが6月にケンタッキー州ルイビルでズビスコ、更には1920年1月にニューヨークでキャドックも破り王座を統一。
世界ヘビー級選手権試合: アール・キャドック vs ジョー・ステッカー
※ 現存する最古のプロレスの映像の一つだといわれる。
これだけの混乱があったのは、プロレス界において、正式に王座を認定する管理団体のようなものが存在せず、プロモーター達がそれぞれ勝手に選手を売り出すために王座を認定していたからだと思われる。そんな状況においても王座統一を成し遂げたのは真の実力者ジョー・ステッカーだった。
だが数年後には、数人のプロモーター達が結託し、団体としてのプロレス興行が徐々に成立していく中、今度は派閥争いによる選手権の混乱が再び始まることになる。