NWA世界ライトヘビー級選手権

近代王座起源シリーズ(6)

カテゴリー: 近代王座起源シリーズ , NWA

プロレスの選手権は、その起源が不明なものが多い。だからこそ、「どう始まったか」よりも「どう続いたか」の方が重要だ。登場の仕方よりも、その王座を保持した選手や防衛戦の質によって、その価値が高められる。

現存する世界最古のプロレス団体はメキシコのコンセホ・ムンディアル・デ・ルチャ・リブレ(CMLL)だが、かつてはエンプレサ・メヒカナ・デ・ラ・ルチャ・リブレ(EMLL)の名で、NWA(アライアンス)加盟団体としてライトヘビー級、ミドル級、ウェルター級の3つのNWA世界選手権を管理していた。このうちNWA本部が正式に認定していたのはライトヘビー級のみだったので、ミドル級ウェルター級は事実上EMLL独自の認定ということになる。

当然のことながらメキシコの選手権という印象が強いが、ヘビー級やジュニアヘビー級同様、NWA(アライアンス)世界ライトヘビー級選手権もまた、NWAの創始者で初代会長のピンキー・ジョージが本拠としていたアイオワ州にその起源を見ることができる。

1949年12月28日、アイオワ州デモインでNWA世界ジュニアヘビー級王座統一戦アライアンス王者ビリー・ゲルズとアソシエーション王者レロイ・マクガークとの間で行われ、マクガークが勝利したが、その後もイリノイ州やウィスコンシン州などでは、ゲルズが王者として認定され続け、同名王座だと混乱を招くからか、翌1950年春には世界ライトヘビー級王者として認定されていた。だがゲルズは1951年9月、バーン・ガニアの保持する世界ジュニアヘビー級王座挑戦に専念することを理由にライトヘビー級王座を返上。同年12月には、イリノイとアイオワの両州において、『グレート・バルボ』ことジョニー・バルボが世界ライトヘビー級王者として認定される。ピンキー・ジョージの本拠地アイオワ州デモインでは、バルボはNWA(アライアンス)世界王者として認定されていた。尚、この時点で既にジョージはNWA会長ではなく、1950年の総会からセントルイスのサム・マソニックにその座を譲っていた。

当初ジョージはNWA本部の許可なしでバルボを王者として認定していたが、翌1952年9月の年次総会では本部によるライトヘビー級王座の認定が正式に決定。その約2か月後、デモインでジプシー・ジョー (ジョー・ドーセッティ、日本で活躍したヒルベルト・メレンデスとは別人)がバルボを破り王座を奪取した。

1952年11月5日 アイオワ州デモイン
NWA世界ライトヘビー級選手権試合:
ジョニー・バルボ [王者] vs ジプシー・ジョー (写真右)

※ 同王座がNWA本部認定後初めて正式に移動。

当時のNWA(アソシエーション)王者は、1950年4月、テキサス州エルパソで行われたトーナメントに優勝したアンディ・トレメーンだった。NWA(アライアンス)からジプシー・ジョーとの王座統一戦の要請を受けたが、それを拒否し、1953年1月に引退。そして8月にはワシントン州スポケーンでフランク・ストジャックがジョーを破りNWA(アライアンス)王座を奪取、同時にNWA(アソシエーション)からも認定される。

フランク・ストジャック

NWA(アライアンス)世界ライトヘビー級選手権の管理運営委員長は、当初ピンキー・ジョージが務めていたが、1954年総会からテックス・ヘイガーが引き継いだ。ヘイガーはアイダホ州を本拠に周辺のユタ、ワシントン、モンタナの各州でも興行を手掛けており、1955年からはワシントン州スポケーンに本拠を移していた。同じくワシントン州を本拠に、世界王者として長期政権を築いていたストジャックだったが、1957年10月、同州体育協会の事務官に任命され、試合数も減っていった。翌1958年、NWAは防衛戦を行わないストジャックから王座剥奪、新王者決定トーナメントがネバダ州カーソンシティで開催されることとなった。

だが1958年次総会の直後、世界ライトヘビー級選手権を管理する権限が、ヘイガーから、前年の総会で第三副会長から第二副会長に昇格したEMLLのサルバドール・ルテロに移った。予定どおりカーソンシティでのトーナメントは開催され、モー・スミスが優勝したが、この時点では既にNWAの認定は取り消され、同王座の運営はEMLLに任されることに決定していた。その後もスミスは、NWA非公認ではあったものの、ネバダ州北部だけではなく、ヘイガーの息のかかったアイダホ州やユタ州で少なくとも1963年頃まで世界王者として活動。

1958年10月29日 ネバダ州カーソンシティ
(幻の)NWA世界ライトヘビー級王座決定戦:
モー・スミス vs ルイージ・マセラ

一方、正式にNWA(アライアンス)から王座の管理を任されたEMLLは、翌1959年2月、メキシコシティで改めて王座決定戦を開催。長年会長を務めたハリー・ランドリー大佐の後を受け継いだデビッド・オットNWA(アソシエーション)会長と、サム・マソニックNWA(アライアンス)会長立会いのもと、ドリー・ディクソンがNWA(アソシエーション)指名選手アル・ケーシーを破り王座を奪取、両NWAから認定された。

NWA世界ライトヘビー級王者ドリー・ディクソン

以後、同王座は、1966年12月にゴリー・ゲレロがベルトを持ったままEMLLを脱退したり、1974年にはレイ・メンドーサが王者のまま新興団体UWAの旗揚げ戦に出場したこともあったが、1974年9月から2005年4月まで一度も空位になることなく、メキシコの主要王座の一つとして定着し、カリフォルニアやテキサスでも防衛された。2010年10月、当時のNWAからの苦情を理由に王座の名称を変更、現在のNWA世界ヒストリック選手権に至る。

 

資料元:


Credits for pictures and images are given to these sites/people.

Copyright © 1995-2025 puroresu.com. All rights reserved. Privacy Policy