1920年代の世界ヘビー級選手権

変遷史……というより派閥争い。

カテゴリー: 世界ヘビー級選手権

第一次世界大戦中の1910年代後半から1920年代初期まで米プロレス界で頂点に君臨していたのは、アール・キャドック、エド・ストラングラー・ルイス、ジョー・ステッカー、ウラデック・ズビスコの4人だった。フランク・ゴッチ返上後の世界ヘビー級選手権も、彼らにジョン・ペゼックを加えた5人が主張し、正に混乱の中にあった。

最終的には、ルイス、ズビスコ、そしてペゼックを破ったステッカーが1920年1月にキャドックに勝利し王座を統一。当時のステッカーやズビスコのマネージャーは、1911年にゲオルグ・ハッケンシュミットのマネージャーとしてゴッチとの再戦を実現させ、1916年からはニューヨークを本拠としボストンでも興行をしていたジャック・カーリーだった。以前はボクシングも手掛けていたが、拳闘界の重鎮であるテックス・リッカードらに追い出される形になり、プロレスの興行に専念していた。その後、ステッカー、そしてルイスのマネージャーのビリー・サンドーらと共に『トラスト』を結成しており、事実上プロレス界を仕切っていた。

ジャック・カーリー

1920年12月には、ニューヨークでルイスがステッカーから王座を奪取。翌1921年には、カーリーの親友およびウラデック・ズビスコの兄で、1914年に世界王者のままヨーロッパへ帰ったスタニスラウス・ズビスコがアメリカに戻り、5月6日、ニューヨークでルイスを破る。だが、この頃から徐々にカーリーと、ルイスやサンドーとの関係が悪化し、同年11月にニューヨークでルイスとズビスコの再戦を主催したのは、カーリーの宿敵テックス・リッカードだった。ルイスとサンドー、ズビスコはカーリー派から離れ、以後、ルイスがニューヨークで試合したのは1929年までの間3回のみで、翌1922年3月にルイスがズビスコから王座を奪回したのも、サンドーのお膝元カンザス州ウィチタでのことだった。そしてこの頃、ルイスとサンドーがトゥーツ・モントと出会い結託、それまで以上にプロレスに娯楽的要素を取り入れ、当時の業界をほぼ独占しかけた3人は『ゴールド・ダスト・トリオ』と呼ばれるようになる。

1923年になると、プロレス界におけるカーリーの権威は更に揺るぐことになる。

前年、世界ミドル級王者ポール・バウザーが、夫人の世界女子王者コラ・リビンストンと共にオハイオ州からマサチューセッツ州ボストンに移住。1923年1月、ボストンのグランド・オペラハウスでの興行権を得たが、以前から協力関係にあったサンドーやルイスと引き続き提携したため、東海岸を牛耳っていたカーリーは難色を示す。新聞などでの両派による口論が続いた後、カーリーが選んだオリンピックの銀メダリスト、ナット・ペンドルトンと、バウザー派の選手との試合が決定した。「ペンドルトンなら、ルイスにもバウザーにも同じ日に勝てる」と公言したカーリーに対し、バウザーは試合の2日前になって対戦相手がジョン・ペゼックであることを発表。試合はペゼックの圧勝で、カーリーがペンドルトンをヘビー級で売り出すという案も失敗に終わり、赤っ恥をかかされたカーリーと、プロモーターとして益々頭角を現してきたバウザーの間で、ニューヨーク対ボストンのプロレス興行戦争が開始した。

ポール・バウザー
1916年3月、オハイオ州ニューアークでジョー・ターナーを破り、世界ミドル級王座を奪取、1920年代初期ボストンでプロモーター業に専念し始めるまで保持。

実力的にはもちろん、政治的にもサンドーやバウザーと共に業界のトップに立っていたルイスだが、様々な挑戦者を退け、不敗のまま3年が経とうとしていた。新鮮な挑戦者が不足する中、話題作りが必要だと感じたサンドーらは、デビューしたばかりのウェイン・マンを売り出し始める。2メートル100キロという大型選手で、頭も良く、レスリングにおける技術面での成長も早かったという。だがサンドーは1925年1月、カンザスシティで、まだデビューして1年も経ってないマンをルイスに挑戦させ、なんと王座が移動してしまった。2月には新世界王者マンがスタニスラウス・ズビスコの挑戦を、2本ストレート勝ちで退ける。

成長著しいとはいえ、まだまだマンが未熟だったという点にカーリーは目を付けた。4月15日、カーリー派のレイ・ファビアニが本拠とするフィラデルフィアで、マンは再度ズビスコと対戦。だが、サンドー派だったズビスコを、カーリー派は現金で引き抜き、王座を強奪させた。再び世界王座は分かれ、カーリー派のニューヨーク、フィラデルフィア、セントルイスでは新王者ズビスコが認定され、サンドー派のイリノイやカンザス、ミシガン、そしてポール・バウザーのボストンなどでは引き続きマンが認定されたが、業界の権力がサンドーやバウザーから再びカーリー派に移ったのも事実だった。

ウェイン・マン

1925年5月30日、セントルイスで、ズビスコは同じくカーリー派のステッカーに王座を明け渡す。同日、シカゴから約80キロ離れたインディアナ州ミシガンシティではルイスがマンを破り王座奪回。だが、ボストンにおいてもマンがズビスコに敗れた試合が残した衝撃は大きく、バウザーは、後にサンフランシスコのプロモーターとして初期の日本プロレス界に大きく貢献するジョー・マルセヴィッチに新しい有望選手として期待をかけていた。

1926年3月上旬、バウザーはシカゴに出向き、ジョー・ステッカーと、ジョーの兄でマネージャーでもあったトニーに大金を積み上げ直談判し、ボストンでの選手権試合開催が挑戦者未定のまま決定された。3月11日、ステッカーはボストン・アリーナに登場、挑戦者だと言われていたジェーク・ブリッサーとの試合のためにリングに上がった。だが試合直前になってマルセヴィッチが現れ、突如ブリッサーと交代。契約違反を主張したステッカーは試合をせずリングを降り、そのまま会場を後にし、結果バウザーは試合放棄を理由にマルセヴィッチを新王者に認定した。

だが、ステッカーが保持しカーリーの手中にあった世界王座が主流だったことには変わりがなく、バウザーとサンドーは、話題作りのためマルセヴィッチとルイスの間で王座統一戦を開催。1926年7月1日にボストンで約1万人を集めて行われた一戦は3時間22分、引き分けに終わった。2人は8月2日、オクラホマ州タルサで再戦し、ルイスが勝利、王座を統一した。

1927年になると、サンドー派内のマックス・バウマンとトゥーツ・モントの間で権力争いが生じる。選択を迫られたビリー・サンドーは、実の兄弟であるバウマンを選び、結果モントがカーリー派に移ったため、業界に改革をもたらした『ゴールド・ダスト・トリオ』は解散となった。間もなく、サンドー派はステッカー兄弟と和解、1928年2月、セントルイスでサンドー派世界王者ルイスがカーリー派世界王者ジョー・ステッカーを破り王座統一。当然カーリーはそれに反発し、ニューヨーク州体育協会はルイスではなくハンス・スタインクを世界王者に認定した。だがスタインクは約半年後、オハイオ州コロンバスでの試合を無断欠場したことを理由に、ニューヨーク州体育協会から無期謹慎の処分を受ける。

1928年2月20日 セントルイス・コロシアム
プロモーターのトム・パックスは元々カーリー派だったため、世界王者ステッカーに挑戦したルイスが王座を奪回したという報道になっている。

その頃、バウザーはNFLの人気選手だったガス・ソネンバーグをスカウトしていた。ルイスやモント、そしてスタニスラウス・ズビスコの弟子ダン・コロフらによって特訓を受けたものの、レスリングの技術面では大して進歩しなかった。だが、その運動神経と人格を気に入ったバウザーは、多くのファンに飽きられたステッカーやルイスに次ぐスターとしてソネンバーグを売り出すことを決意。そして、かつてカーリー、トニー・ステッカー、サンドーらがしてきたように、自ら世界王者を管理するという賭けに出た。1929年1月4日、ボストン・ガーデンで世界王者ルイスに挑戦したソネンバーグは、2本ストレート勝ちで王座を奪取。

また、バウザーは『ゴールド・ダスト・トリオ』同様、世界王者を中心として巡業する一座を結成し、『ポリスマン』としてダン・コロフ、そしてソネンバーグ専任のレフリーも同行させた。ルイスやステッカー、マルセヴィッチらバウザー派の選手達だけではなく、パット・マッギルやカール・サーポリスらの強豪も相手に、全米の隅々において王座を防衛していった。

ガス・ソネンバーグ

ソネンバーグが持つ可能性を無視できなかったカーリーも、一時的だが王者として認定し、2月から3月にかけて3度ほどソネンバーグがニューヨーク市内で王座を防衛。だがバウザーが世界王座の実権を握っていたことは変わらず、挑戦者の大半がバウザーの息がかかった選手だという、カーリー派にとって不利な状況も続いた。7月にはニューヨークおよびペンシルバニア両州体育協会が、「適格な」挑戦者と試合をしないことを理由にソネンバーグから王座を剥奪、そしてナショナル・ボクシング・アソシエーション(NBA)もこれに続いた。更に、カーリー派だったフィラデルフィアのレイ・ファビアニによる依頼で、ペンシルバニア州体育協会はソネンバーグに対して謹慎処分を下した。1929年8月3日、フィラデルフィアで新世界王座決定戦が行われ、約3万人の観衆が見守る中、ディック・シカットがジム・ロンドスを破り、ニューヨークおよびペンシルバニア両州体育協会、そしてNBAから王者に認定された。

多くの州で認定を取り消されたソネンバーグだったが、西海岸の重鎮ルー・ダローがバウザーの味方だったということもあり、全米第二の都市ロサンゼルスでも世界王者として認定され、オリンピック・オーディトリアムを中心に南カリフォルニアにおいても人気を博した。

再び2人の世界ヘビー級王者が誕生した米プロレス界だが、1930年代に入ると、州体育協会とは別の『選手権管理団体』の出現により、更に数多くの世界王座が現れることになる。

 

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