1935年、ダノ・オマホニーがナショナル・レスリング・アソシエーション(NWA)、アメリカン・レスリング・アソシエーション(AWA)、そしてニューヨーク州体育協会(NYSAC)の3大王座を奪取し、一時は統一世界ヘビー級王者が誕生かと思われたが、翌年ディック・シカットがプロモーター達に造反しオマホニーから王座を強奪してから、世界王座は再び分裂の道をたどる。また、1939年11月にコネチカット州ブリッジポートで世界ライトヘビー級王座を奪取したボビー・ブランズが、マッチメーカーだったジャック・フェファーから世界ヘビー級王者に認定され、北東部や中西部でも防衛。1940年1月の時点では、少なくとも6人の選手達が北米において世界ヘビー級王者を名乗っていた。
- リング誌、カリフォルニア、メリーランド、ミネソタ、ハワイ他: ジム・ロンドス
- NWA(セントルイス、テキサス他): ブロンコ・ナグルスキー
- AWA(ニューイングランド): スティーブ・ケーシー
- MWA(オハイオ): ジョン・ペゼック
- ジャック・フェファー派(ブリッジポート他)、MWA(カンザスシティ): ボビー・ブランズ
- モントリオール: イボン・ロベア
この中でAWAは『ニューイングランドの世界王座(1)』、MWA(オハイオ)は『オハイオ州の世界王座(5)』、MWA(カンザスシティ)は『MWA世界ヘビー級選手権(カンザスシティ)』にそれぞれ詳細を書かせていただいた。
モントリオール版世界王座は、1938年1月にルー・テーズの挑戦を拒否したロベアがAWA世界王座を剥奪された際、引き続きモントリオールで認定されたもので、その後ビック・クリスティ―やマスクド・マーベルらも奪取したが、1939年10月にアーニー・デュセクを破ったロベアが3度目の栄冠を果たした。
1930年代のプロレス界最大のスターで多くの州において世界王者として認定され相変わらず人気のあったジム・ロンドスだったが、1939年になると次第に試合数も減り、防衛戦をキャンセルするなどで、各地で王座を剥奪され始める。同年カナダのオンタリオ州トロントではロンドスに替わりブロンコ・ナグルスキーが認定され、以降NWA(アソシエーション)世界選手権が同地においても世界王座となる。
カリフォルニア州ロサンゼルスでも1940年11月、ロンドスが世界戦をキャンセルしたため予定されていた挑戦者サンダー・ザボーが一時的に世界王者に認定されたが、翌1941年3月にはロンドスが再度認定。またロサンゼルスでは1942年8月、ロンドスの後任を選ぶためのトーナメントが開催され、決勝でスウェディッシュ・エンジェルを破ったルーブ・ライトが優勝するが、カリフォルニア州体育協会はそれを認めず、ライトを州王者とし、引き続きロンドスを世界王者に認定した。ライトは同年10月から11月にかけて、ニューヨークでも世界王座に認定されていた。
1943年6月、ミネソタ州ミネアポリスではロンドスが病気を理由に世界戦をキャンセルし、ここでも王座を剥奪される。挑戦者ビリー・クーシストが認定され少なくとも同年末まで王座を保持した。1944年春からはサンダー・ザボーが同地区で認定。
1944年3月、メリーランド州ボルティモアでエド・ストラングラー・ルイスとの対戦権をかけたトーナメントが開催され、同地でも世界王者に認定されていたロンドスも出場を要請されるが、辞退したため王座を剥奪される。16人参加トーナメントでは3月7日に行われた決勝でベーブ・シャーキーがレオ・ウォリックを破り、翌週3月14日にルイスも破り、メリーランド州体協から世界王者に認定される。
ロンドスの王座とは別に、多くの州で認定されていたのがNWA(アソシエーション)世界王座だが、実権を握っていたのはミズーリ州セントルイスでプロレスとボクシングの興行を手掛けていたトム・パックスだった。1930年代にはAWAやMWAの防衛戦もセントルイスで開催していたが、1939年パックスはNWA(アソシエーション)世界王座に専念することを決意。6月にはテキサス州ヒューストンでブロンコ・ナグルスキーにルー・テーズから王座を奪取させた。

ギリシャからの移民で本名はアハナシオス・パキオティス。1923年から20年以上に及びセントルイスのプロレス界を牛耳った。
ロンドスの試合数が減る一方でNWA(アソシエーション)王座の価値を高めていったパックスだったが、1941年にはその後の政権交代を予想させるような出来事が起こる。
まず1月には、カンザス州ウィチタで、かつてエド・ストラングラー・ルイスのマネージャーとして活躍し、1920年代にはルイスとトゥーツ・モントと共に『ゴールド・ダスト・トリオ』として米プロレス界に大きな変革をもたらしたと言われるビリー・サンドウが弟のマックス・バウマンやペリー・バッシュらと共にナショナル・レスリング・アライアンスという団体を結成。日本のファンに馴染みの深いあのNWAとは同名の別団体だ。NWA(アソシエーション)世界王者レイ・スティールが挑戦を拒否したという理由でロイ・ダンを世界王者に認定した。
そして同年9月には、パックスの片腕的存在だったサム・マソニック(英語読みは『マチニック』)が造反。
マソニックは1926年、スポーツ担当として新聞社セントルイス・タイムスに入社するが、1932年6月、セントルイス・スターがタイムスを買収。8月には幾つかの会社からの誘いを蹴ってパックスの下で渉外担当に就任。長年の経験を活かし、地元の新聞に試合の宣伝用の記事を書いたり、選手達との交流も深めていく。関係者の中には、パックスの団体で実権を握っているのはマソニックだと勘違いする者もいた。
1941年4月8日、パックスはセントルイス・アリーナで世界ヘビー級ボクシング王者ジョー・ルイスとトニー・ムストによる選手権試合を開催し、17,000人以上の観衆を集め、約$52,600の収益を上げる。だが、関係者の中にはマソニックが興行の成功に貢献したということを理由に、マソニックに収益の1割以上を支払うべきだと主張する者もいた。本来$500以上の額になるところだが、実際にパックスがマソニックに支払ったのはわずか$200。マソニックは9月、ついにパックスと袂を分かち、自ら興行を手掛けることを発表するが、ミズーリ州体協にライセンスの申請をするも却下される。マソニックは諦めることなく州体協を提訴し、翌1942年3月セントルイス市体協から興行の許可を与えられ、3月27日にセントルイス・アリーナで初興行。
だが、その4ヶ月前の1941年12月に太平洋戦争が勃発。マソニックも徴兵され、1942年5月に空軍に配属されることになり、せっかく始めたプロレス興行からもやむを得ず遠ざかる。結果、セントルイスはもちろん、NWA(アソシエーション)においてもパックス政権が続いた。1941年6月、サンダー・ザボーがブロンコ・ナグルスキーからNWA(アソシエーション)世界王座を奪取するが、1942年2月にはビル・ロンソンがザボーを破る。両方ともセントルイスでの王座移動だ。ロンソンは10月にカナダのモントリオールでイボン・ロベアに敗れるが、ロベアは翌月テキサス州ヒューストンでボビー・マナゴフに王座を明け渡す。そして1943年2月、セントルイスでロンソンがマナゴフを破り王座奪回を果たす。

第二次世界大戦期間中の半分および戦後1年半に及びNWA(アソシエーション)世界王者に君臨。
当然のことだが、他にも第二次世界大戦の影響はプロレス界にも及んだ。例えばニューイングランドでは、AWA世界王者スティーブ・ケーシーが1942年陸軍に入隊し一時的に選手活動を休止。訓練中の負傷により1943年後半に除隊するが、プロレスに復帰するのは年が明けた1944年1月のことだった。4月4日ボストンで戦時中暫定王者サンダー・ザボーを破り統一王者に認定されるが、3週間後の25日にはザボーに王座を奪われる。1945年5月にはフランク・セクストンがザボーから王座を奪取。6月6日にスティーブ・ケーシーに敗れるが3週間後奪回し、以後5年に及ぶ長期政権を築く。
また、カンザス州版NWA(アライアンス)でも、フレッド・ディバインが戦時中暫定王者に認定されたが、1945年4月18日にトピカで公式王者エデ・ヴィラグがディバインを破り王座統一。
1945年8月終戦の時点での世界王者は以下のとおり。
- NWAアソシエーション(セントルイス、テキサス、オンタリオ他): ビル・ロンソン
- カリフォルニア、太平洋岸北西部、ハワイ他: ジム・ロンドス
- AWA(ニューイングランド): フランク・セクストン
- MWA(オハイオ): ジョン・ペゼック
- MWA(カンザスシティ): オービル・ブラウン
- NWAアライアンス(アイオワ): オービル・ブラウン
- ミネソタ: サンダー・ザボー
- NWAアライアンス(カンザス州ウィチタ): エデ・ヴィラグ
- メリーランド: ベーブ・シャーキー
- イリノイ: ウォルター・パーマー
- モントリオール: ジョー・サボルディ
自分の記憶が正しければ、小学館入門百科シリーズの『プロレス入門』に、「第二次世界大戦後アメリカには世界チャンピオンが10人もいた。」という内容のことが書いてあった。当時は小学生の分際で、「いくらなんでも10人は多過ぎる。子ども向けに大げさに書いてあるのか?」と思ったものだが、ここに挙げてるだけで10人いるので、おそらくそれ以上いたのだろう。
戦後もジム・ロンドスは西海岸やオーストラリアなどで世界王者として活動していたが、1947年になると大半の州において引退扱いとなり、10年近く保持していた世界王座も自然消滅になる。
終戦間もない1945年9月2日、ロサンゼルス郊外のパサデナでデーブ・レビンがメリーランド州版世界王者ベーブ・シャーキーを破り、ジャック・フェファーから世界王者に認定される。シャーキーは引き続きメリーランドで王座に認定されるが、1946年1月ボルティモアでAWA世界王者フランク・セクストンに敗れる。その後シャーキーはオレゴン州に転戦し、「ジム・ロンドスから奪取した」という触れ込みで世界王者に認定される。7月3日、オレゴン州ポートランドでシャーキーがレビンを破るが、フェファーは引き続きカリフォルニア州南部やオクラホマ州などでレビンを認定。1946年9月にはポートランドでジョージ・ベッカーがシャーキーを破ると、間もなくロサンゼルスに転戦、12月にエンリケ・トレスに敗れ王座を明け渡す。一方、AWA世界王者セクストンはニューイングランド地方やメリーランド州だけではなく、1946年秋頃から少なくとも約1年間はニューヨーク州でも認定される。
同じく1945年9月、モントリオールでは元NWA(アソシエーション)世界王者ボビー・マナゴフが同地区認定世界王者ジョー・サボルディを破り2度目の栄冠。ルー・テーズやイボン・ロベアらと抗争し、1943年から1951年まで5度王座を保持した。また同王座はロベアが1948年にフランスでも防衛した。
1945年9月18日には、サム・マソニックが40ヶ月の軍役を経て名誉除隊が認められ、10月22日付でミズーリ州体協からプロモーターとしてのラインセンスを与えられる。12月5日にキール・オーディトリアムで行われた復帰後初興行のメインイベントでは、カンザス州版NWA(アライアンス)世界王者エデ・ヴィラグと元王者ロイ・ダンがメインイベントで対戦。以後、色々な地区から選手達を招いたが、パックスの観客動員を上回ることはなかった。1948年に入り、ついにマソニックは赤字経営から抜け出すことができたが、時を同じくして、投資管理の不手際が続いていたパックスは経営難に陥っていた。パックスは興行と事務所、そしてNWA(アソシエーション)世界ヘビー級王座の権利をミシシッピ・バレー・スポーツ・クラブ(MVSC)に売却。新興MVSCの社長はマーティン・テーズだったが、あくまで表面的な役職で、実際には現役王者ビル・ロンソン、元王者ボビー・マナゴフ、エディ・クイン(モントリオール)、フランク・タニー(トロント)らによる共同出資。そしてMVSCの実権を握っていたのはマーティンの息子ルーだった。1948年6月4日のキール・オーディトリアム大会を最後にパックスは引退。6月18日のMVSC初興行ではロンソンがホイッパー・ビリー・ワトソンを破りNWA(アソシエーション)世界王座を防衛した。セントルイスを米プロレス界の中心地にし、マソニックやテーズを『発掘』したことによりプロレス史において偉大なる功績を遺したパックスの静かな引退だった。
それから丁度1ヶ月後の1948年7月18日、アイオワ州ウォータールーに、中西部の6人のプロモーター達が集結。現地のプロモーターはアンディ・ジョージで、兄の『ピンキー』ことポール・ジョージ(同州デモイン)と共にナショナル・レスリング・アライアンスの名称で世界ヘビー級とジュニアヘビー級王座を認定していた。当日はサム・マソニック(セントルイス)、マックス・クレイトン(ネブラスカ州オマハ)、ジョージ・シンプソン(カンザスシティ)、そしてトニー・ステッカー(ミネアポリス)の代理ウォーリー・カルボが集まり、中西部のプロモーター連盟として『ナショナル・レスリング・アライアンス』(NWA)を結成、発起人ピンキー・ジョージを初代会長とした。欠席だったフレッド・コーラー(シカゴ)も電報で参加を表明。アイオワ州でNWA(アライアンス)、カンザス州でMWAから世界王者に認定されていたオービル・ブラウンが、改めてNWA(アライアンス)の初代世界ヘビー級王者に認定された。また、9月25日にミネアポリスで行われた会議ではアル・ハフト(オハイオ州コロンバス)とハリー・ライト(ミシガン州デトロイト)の加盟が承認された。

右: NWA創始者および初代会長ピンキー・ジョージ (アイオワ州デモイン)
MWA(カンザスシティ)の実権を握っていたオービル・ブラウンはNWA結成以前から中西部だけではなくアイダホ州やモンタナ州、更にはカナダ西部のマニトバ州やアルバータ州でも王座を防衛しており、NWAが発足すると、東はウェストバージニア州から西はカリフォルニア州まで、未加盟地区を含む広域において世界王座を防衛していく。1948年11月1日にはカリフォルニア州ハリウッドで、ジャック・フェファー派世界王者バディ・ロジャースとの間で試合が予定されていたが、フェファーはその6日前、同州サンディエゴでビリー・ダーネルにロジャースから王座を奪取させ、結果ロジャースは丸腰の状態でNWA(アライアンス)王者ブラウンに挑戦し敗れる。
セントルイスでは相変わらずパックス派の流れを受け継ぐテーズ派のMVSCが興行成績ではマソニック派を上回っていたが、年が明けた1949年1月、ジャック・フェファーはマソニックの興行に、自らの演出で人気上昇中だったバディ・ロジャースをハリウッドから派遣。キール・オーディトリアムに集まった10,110人の観衆の前で、ロジャースはボビー・ブランズと対戦し勝利。この頃からマソニック派の巻き返しが本格的になり、同年9月両者は和解しマソニックとテーズの間で業務提携が結ばれる。9月にはオクラホマ州タルサのサム・アベイとテキサス州ヒューストンのモリス・シーゲルのNWA(アライアンス)加盟が決定。そしてついに11月25日セントルイスでNWA(アライアンス)世界王者オービル・ブラウンとNWA(アソシエーション)世界王者ルー・テーズとの間で統一戦が開催されることが決定。
だが10月31日、デモインでボビー・ブランズを相手に60分時間切れでNWA(アライアンス)王座を防衛したブラウンは、試合後の真夜中、対戦相手のブランズと共に車でカンザスシティに戻る途中、デモインとカンザスシティの中間あたりで交通事故に遭い重傷を負う。ブラウンは4日後に意識を取り戻すが、テーズとの統一戦は中止となった。11月26日から2日間にかけてセントルイスでNWA(アライアンス)の緊急総会が開催され、車椅子のブラウンとNWA(アソシエーション)会長ハリー・J・ランドリー大佐を含む約50名の出席者が集まり、ポール・バウザー(ボストンAWA)、エディ・クイン(モントリオール)、フランク・タニー(トロント)ら計10名のプロモーターの加盟が承認され、27日には正式にテーズが統一王者に認定された。

ブラウンは1963年に引退するまでプロモーター業を続け、時折レフリーとして試合を裁くこともあったが、選手として復帰することはなかった。後年マソニックの会長時代に、NWA(アライアンス)にAWAやNWA(アソシエーション)の王座を強引につなぎ合わせて作成された突っ込みどころ満載の『公式』変遷史では残念ながら名前が外されたブラウンだったが、事故にさえ遭わなければテーズを破り統一王者として認定されていたはずだと言われている。ブラウンの王者時代の各地での活躍、そしてピンキー・ジョージ初代会長との信頼関係がその礎を築き上げたという点では、NWA(アライアンス)の大きな貢献者の1人と言っても過言ではない。
発足後1年4ヶ月で会員数が6人から一挙に20人以上に膨れ上がり急成長を遂げたNWAだったが、1949年末の時点でも地区によっては独自の世界王座を認定し続けた。
- AWA(ニューイングランド)、メリーランド: フランク・セクストン
- カリフォルニア州: エンリケ・トレス
- MWA(オハイオ州): 空位
- モントリオール: イボン・ロベア
1950年代に入ると、必然的にNWAは更なる王座統一への道を歩み始める。
資料元:
- Wrestling-Titles.com
- LegacyOfWrestling.com
- Hooker (ルー・テーズ自伝)
- St. Louis Star-Times
- St. Louis Globe-Democrat
- The Kansas City Times
