世界女子選手権(前編)

というか女子プロレス相姦図?

カテゴリー: 女子プロレス

日本で女子プロレスというと、第二次世界大戦後間もなくキャバレーやストリップ小屋などで始まったというのはよく知られている話だが、アメリカでは既に19世紀末には『ナショナル・ポリス・ガゼット』誌が女子のグレコローマン選手権を認定していた。

だが多くの場合、日本と似たような状況で、サーカスやボードビルでの出し物の1つとして扱われることが多く、選手の数も少ないことからか男子選手との試合も多かった。異性間の試合について倫理的に反対する人達も多く、禁止する州も少なくはなかったようだ。また、男子のプロレスのように各州の体育協会が管理していたわけでもなかったので、男子以上に王座が乱立していた。

そんな中、頭角を現してきたのはコラ・リビンストンだ。1906年3月にニューヨーク州バッファローで米国王者ヘイゼル・パーカーを破った頃から世界王者を名乗り始め、北東部や中西部で活躍。他に王座を主張していた選手達の中には、ローラ・ベネットのようにリビングストンと対戦し敗れた者もいれば、サンドラ・ポーターやズィーリ・ザンベリのように新聞を通してリビングストン自ら名指しで挑戦してきたにも関わらず対戦を避けた者もいた。

コラ・リビンストン
後にニューイングランド地方の大プロモーターとなるポール・バウザーと結婚。

リビングストンが引退して間もない1934年、オレゴン州ではプロレスラーの父マートや兄ミロから特訓を受けていたクララ・モーテンセンが世界王座を主張し始める。『Tigress(雌虎)』と呼ばれたモーテンセンは西海岸だけではなく南部一帯でも活躍した。1937年になると、モーテンセンが「1932年にカンザス州トピカでバーバラ・ウェアから王座を奪取した」という記述が各地の新聞記事に掲載され始める。実際には1932年12月20日、トピカで王座を主張していたウェアがモーテンセンを破っていたのだが、これとは正反対の内容が新聞に載り始めたのは、ウェアと元夫の関係が原因ではないかと思われる。

その頃、ミズーリ州ライトヘビー級王者ビリー・ウルフは、選手として体格にも外見にも恵まれなかったと言われるような存在だったが、自らトレーナーおよびプロモーターとしての才能に目覚め、女子選手達を養成していた。教え子の1人であるバーバラ・ウェアと結婚していたウルフは、ある日レストランで食事をしていると、母親と2人でその店を経営していた小柄な女性に入門を懇願される。

1915年夏、カンザス州コフィ―ビルに生まれたミリー・ブリスは、親の仕事の関係で引越を繰り返しながら育っていった。母親が料理を担当していたニューメキシコ州の先住民保護区にある公営レストランで働いていたミリーだったが、十代の白人少女には保護区での生活は退屈で、人生の中で刺激を求め17歳で結婚する。夫と母親を含む3人はカンザスシティに戻りレストランを経営。

ある日ミリーは夫に、生まれて初めてプロレス観戦に連れて行ってもらう。小柄だったことから、学校でも男子生徒達から虐められることが多かったというのもあり、体の大きな男たちがリング上でぶつかり合う姿に虜になってしまう。だがミリーは、ただのプロレスファンに留まることなく、実際に選手としてリングに上がることを夢を見るようになる。

同じ頃、ミリーは初子を身ごもるのだが、間もなく離婚。身重のまま母親と2人でレストランの経営を続けることになる。そんなある日、店にビリー・ウルフとバーバラ・ウェアがやって来た。2人は結婚して約2年経っていたが、ウルフにとっては2人目の妻だった。2人はミリーの店の常連になるが、プロレスファンとしてウルフの存在を知っていたミリーは、好印象を持ってもらうために、健康に気を使っていたウルフが喜びそうなサラダを用意し続けた。

そしてある日、ミリーはウルフに入門を懇願するが、その小柄な体格を見たウルフに軽くあしらわれる。以降、店にウルフが来る度に入門を頼み続け、時にはウルフに合わせてサラダを作るのを止めると脅したりもしたが、「体が小さすぎる」や「仮に強かったとしても、誰がお前みたいなのを金払って観に来るか」と言ったセリフで断られる。

19歳になる前日、ミリーは男の子を出産するが、店の経営状態は悪化しており、ベビーシッターを雇う金もなかったミリーは改めてウルフに入門を懇願。ついに折れてしまったウルフは、自身のジムで男性選手相手のオーディションを決意。実はその選手もウルフの弟子で、ミリーが入門を諦めるほど徹底的に痛めつけるように指示されていた。だがミリーは1分以内でその男性選手を2度フォール。これにはウルフも入門を許すしかなく、以後3人で本格的な特訓に入る。

多くの女子選手達を育てたウルフだが、その分女癖も悪かった。それに嫌気がさしたのか、ミリーが入門して間もなく、妻のバーバラ・ウェアはウルフと別れることになる。ウルフは教え子の多くと関係を持っていたことで知られるが、ミリーもまた例外ではなかった。また、ウルフ傘下のスター選手だったはずのウェアが去ったため、ウルフも後釜を早急に用意しなければならなかった。そしてミリーも、赤ん坊を育てていく中、安定した生活を求めていた。お互いを必要としていた2人は結婚する。

だがミリーにとって結婚生活は初めから災難続きだった。カーニバルなどで男女含め自分より大きい選手達を倒しながら活躍し続けたミリーの財政面は、マネージャーでもあったウルフが全ての実権を握っていた。その後も巡業中に他選手やカーニバルの女性出演者などと関係を持っていたウルフだが、財政面だけではなく、赤ん坊の親権まで奪われるのではないかと恐れていたミリーは、ウルフに従うほかなかった。

ミリーの人気が出てきたある日、ウルフはリングネームを思いついた。英語に「Ignorance is bliss. (無知は至福)」という、「知らぬが仏」のような諺があるが、ブリスという姓が気に入らなったウルフは、愛称ミリーの本名であるミルドレッドに別姓を付けた。後にプロレス史にその名を残すことになる「ミルドレッド・バーク」の誕生である。

当時カンザスシティセントルイス、シカゴではプロレス興行での女子選手による試合が禁止されていたため、1936年の暮れになると2人は中西部を去り南部に活躍の場を求め、アラバマ州バーミンガムに移るが、そこでもカーニバルでの『試合』が続いた。また、南部ではカーニバルの観客に対して人種的隔離をする方針があり、それもまたミルドレッド・バークがサーカス生活に嫌気がさしていた理由の1つでもあった。

相変わらず女性選手はサーカスやカーニバルでの見せ物として出場することが多かったが、バークは女子選手も男子選手同様の活躍ができると信じて疑わなかった。一方ウルフも、サーカスだけではなく本格的にプロレスの興行においても選手を提供できるプロモーターだと証明したいという気持ちが強くなっていった。夫婦関係としては波乱万丈だったが、お互いを利用するというビジネス関係では一致した。

ミルドレッド・バークとビリー・ウルフ
📷 – Pro Wrestling History Nerds

通常のプロレス興行におけるバークの本格的な売り出しを目指していたウルフが目を付けたのは世界王者クララ・モーテンセンだった。アラバマ州北部を中心にバークをモーテンセンに挑戦させ、テネシーケンタッキー、更にはインディアナでも20歳の世界王者と21歳の挑戦者による抗争が繰り広げられるが、少なくとも15試合戦いモーテンセンがほぼ全勝で、引き分けがあった可能性もあるがバークが勝つことはなかった。

だが、1937年1月28日にテネシー州チャタヌーガでついにバークがモーテンセンを破り初栄冠。僅か2週間後の2月11日、同じくチャタヌーガで再戦が行われるが、3本目でのレフリーによる高速カウントによりバークが敗れてしまう。当然のことながら、他地区ではバークが引き続き世界王座を主張。この頃オハイオ州コロンバスのMWAではバークを正式に王者として認定した。これが米国におけるプロレスの選手権管理団体による初めての女子王座認定だとされている。4月19日、ウェストバージニア州チャールストンで再びモーテンセンを破り王座奪回。バーク時代の本格的な幕開けである。

クララ・モーテンセン

バークは1938年11月、コロンバスでベティ・ニコルスに敗れるが12月1日には同地で奪回。以後、約16年間女子プロレスの頂点に君臨する。時には男子選手達も出場する興行でのメインイベントを務めることもあり、全米はもちろん、カナダメキシコでも世界王座を防衛した。

リング上での成功とは裏腹に、結婚生活は悪化する一方だった。ウルフはバークの運転手兼ボディガード役を自分の息子である『G・ビル』ことジョージ・ウィリアム・ウルフに任せていたが、ウルフが多くの女性達と関係を持ち続ける中、G・ビルとバークは車や巡業先で共に過ごす時間が増え、6歳しか離れてない2人は恋愛関係に入っていった。

1944年12月8日 テキサス州ヒューストン – サム・ヒューストン・コロシアム
ミルドレッド・バーク vs メイ・ウェストン

1948年、ウルフは女子選手数名を連れてメキシコへ遠征。その中にはウルフの教え子であるジョニー・メイ・ヤングとリリアン・エリソンもいた。元々自分の命令を聞かないヤングを懲らしめる機会を狙っていたウルフは、米国外に連れ出すことで目的を果たそうとしていたという。案の定、遠征中に2人は口論になり、ホテルの部屋でウルフはヤングに暴行を加えた。その後もヤングはウルフと仕事上の関係は時々続けていたが、ヤングと親しかったエリソンはウルフと袂を分かつ。エリソンは間もなくジョニー・ロングという選手と結婚し、ロングの紹介でジャック・フェッファー派に鞍替えする。エリソンは世界ジュニアヘビー級王者に認定されたが、あくまでフェッファーが関わる興行が中心で、北米の大半では相変わらずバークが世界王者として認識されていた。

メイ・ヤング

1949年12月にはウルフのNWA(アライアンス)加盟が承認され、1950年からバークもNWAから正式に世界王者に認定。

同じく1950年、17歳の少女がウルフに弟子入りする。前年ミネソタ州のNWA会員トニー・ステッカー(元世界ヘビー級王者ジョー・ステッカーの兄)から紹介された同州出身のジャネット・ボイヤーだ。ジャネットもまた小柄だったため、既に40人以上の女子選手を抱えていたウルフに入門を断れるが、体重を増やし1年後再び入門を懇願。努力を認めたウルフはジャネットの入門を許可するが、18歳以下だったため、養女として迎え入れることをジャネットの母親に提案。父親が他界していたため、彼女の将来的な活躍を望んでいた母親は合意した。ジャネット・ボイヤー・ウルフとしてプロレスの特訓を続けた。

だが、これについてミルドレッド・バークは快く思ってなかったと言われる。

ジャネットは体に不調を感じながらも、せっかく夢見たプロレスラーとしての人生が絶たれるのを恐れ、それを内緒にしながら試合を続けていた。そして、1951年7月27日オハイオ州イースト・リバプールの試合で悲劇が起こった。頭に激痛を感じていたジャネットだったが、無理をして試合を続ける中、タッグパートナーと交代した直後にエプロンで倒れ、病院に運ばれる。デビューから半年後、脳内出血により18歳の若さで帰らぬ人となった。

時を同じくし、ウルフの息子G・ビルは、既に8年間関係を続けているバークとの結婚を認めるようウルフに申し出る。だが、「俺はあいつのことなんか欲しくない。あいつをどう利用するか。ただそれだけだ。お前にもあんな女をやるわけにはいかない。」と断られる。バークとの関係を許されなかったG・ビルは、以降アルコール依存症の道を辿ることとなる。その後G・ビルは、父親が「使い捨て」をした女性達の相手をすることが続いた。

当然、この頃からバークとウルフの仲は更に悪化し、ウルフも新しく主要選手を売り出すことを急ぎ、愛人のネル・スチュアートをバークの挑戦者として指名。1952年2月9日、オハイオ州コロンバスで開催された試合は引き分けに終わり、スチュアートが次期王者候補であることを多くの関係者達に対して明確にした。同年NWA総会のためロサンゼルス入りしたウルフとバークは、G・ビルとバークの息子ジョーを含む4人でレストランで会食。そこでウルフはバークに対し、スチュアートに王座を明け渡すよう命令するが、バークは、「本当に私に勝てるのなら、王座でもなんでも獲らせればいい。」と拒否。レストランを出ると、この口論が理由でウルフはバークに暴行を加え、全治数ヶ月の負傷を負わすことになる。

バークとウルフは1953年2月正式に離婚。NWAの会員だったのはあくまでウルフで、正式に世界王者として認定されていたとはいえバークの発言権は減る一方だった。プロモーターとしてNWA加盟を申請したバークだったが、サム・マソニック会長は「NWAは男の団体」として、これを却下。

ウルフは同年4月、メリーランド州ボルティモアで新王座決定トーナメントを開催。ウルフの愛人であるスチュアートが優勝候補であることは誰の目にも明らかだった。バークは同地の新聞などに手紙を送り、「今度プロモーターのエド・コントス氏が主催するトーナメントでのネル・スチュアートの優勝をお祝いします。」といった、予め結果を公表するかのような内容の文章を投稿した。これにはウルフも予定変更しざるを得ず、決勝ではG・ビルの妻であるジューン・バイヤーズがスチュアートを破り、メリーランド州体育協会から新王者に認定された。当時バイヤーズはミリー・スタフォードと組んで世界女子タッグ王座に君臨し、既に各地で活躍していた。一方、全て御膳立てされていたにも関わらず、世界王座を奪取させてもらえなかったスチュアートの選手生活は下降気味になっていく。

ウルフと別れたバークは、活動を続けていくためNWAの公式誌に世界王者としての広告を提出するも、表紙に「世界王者 1937~1953」と掲載されたため同誌を訴えるが、間もなく廃刊となり、元王者という印象を読者に与えたままだった。ウルフとバークとの問題に嫌気がさしたのか、NWAは1953年の総会で女子王座認定の停止を決定する。以降、何人かの選手達が加盟プロモーター達から世界女子王者として認定されたが、NWA本部が正式に女子王座を認定することはなかった。次にNWAが女子王座を認定するのは、1993年にWCWが離脱し弱小化した7年後の2000年10月だった。

1954年2月、バークはフロリダ州のNWA会員カウボーイ・ラトロールとジョージア州アトランタのブッカーだったドン・マッキンタイヤーと結託し、自ら巡業のための選手達の確保に急いだ。一時はオクラホマ州タルサのレロイ・マクガークがバークのブッキングを担当していたこともあったようだが、同じくNWA会員であるウルフの陰謀により、次第にバークはNWA内でブラックリストに載せられることになる。

だがバークは各プロモーターやメディアなどに対して、如何に自分が真の世界王者であるか主張し続け、1954年8月20日にアトランタでバークとバイヤーズが対戦することがついに決定した。

(後編に続く)


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