NWA (ナショナル・レスリング・アライアンス)の歴史は大きく分けると、4時代ある。
- 1948年7月~1993年9月: 発足~WCW脱退
- 1993年9月~2012年8月: WCW脱退、プロ・レスリング・オーガニゼーションLLC設立~加盟団体保険制度に関する裁判に敗訴
- 2012年8月~2017年9月: インターナショナル・レスリング・コープLLC設立(ブルース・サープ)~ライトニング・ワンINC(ビリー・コーガン)への売却
- 2017年9月~現在
NWAが各地に加盟団体を持つプロレス界の国際的主要組織だったのは、事実上1950年代前半から1980年代中期までの間。今回の話題はその時代が中心だが、それより後の時代については、また別の機会に書こうと思う。
当時のNWA本部が実際に認定し管理していたのは世界ヘビー級、ジュニアヘビー級、ライトヘビー級の3王座のみ。このうち、ジュニアヘビー級はオクラホマ地区のレロイ・マクガーク、ライトヘビー級はメキシコのEMLL(現CMLL)に管理が任されていた。1950年代初期に、短期間ながらミルドレッド・バークの保持する世界女子選手権を正式に認定していたこともあったようだが、その他の選手権については、加盟団体が適当に『NWA』を付けたり付けなかったりといった具合だった。要するに、それら以外で『NWA認定』とされていたのは、全てその地区のローカル王座だった。特に世界タッグ選手権とUSヘビー級選手権は、ミッドアトランティックやサンフランシスコ、デトロイトなど、多くの加盟地区がそれぞれ認定していた。アメリカのプロレスが全国中継されておらず、殆どがローカル番組だったからこういうことが可能だった。プロレス専門雑誌なんかは苦労しただろうが…。
中にはWWWFやプエルトリコのWWCのように、NWAに加盟していながらも、独自の『選手権管理団体』の名称を使っていたものもあるが、それらと区別するという意味も含めて、自分が運営するWrestling-Titles.comでは、NWA加盟団体の認定する多くの選手権の名称に『NWA』と付けている。実際にはNWAと付いてなかったものもあるだろうだが、通常、試合前にリングアナウンサーが「この選手権試合は、NWAの許可のもとで行われます。」というようなことを言ったり、王座決定戦に当時のNWA会長が立会人として招かれたり、王座返上や剥奪などの際も、送られてきたビデオでNWA会長がテレビを通して発表したり、様々な方法で王座に権威付けがされていた。加盟地区の中には、NWA本部が存在さえも知らない選手権があったかもしれないが、少なくとも表面上では『NWA認定』だった。
当然、日本にあった選手権も同様だ。
新日本プロレスがNWA北米タッグ選手権を使い始めた時点では、まだNWAには加盟していなかったが、それは新日に外国人選手を派遣していたロサンゼルス地区のマイク・ラベールがNWAの会員だったから可能だった。同地区のテレビ中継では、スタジオの壁にNWAの大きなロゴが飾られていたし、後にラベールは第一副会長も務めたほどだった。
全日本プロレスの選手権については、あれだけ選手権試合宣言で「NWAが認定し、PWFが認可する」(反対だっけか?)を連発し、時として立会人に当時のNWA会長を招いたりしたので、明確だろう。NWA傘下とはいえ独自の『選手権管理組織』であるPWFの名がついたもの以外は、少なくとも表面上は『NWAの選手権』ということになる。
日本プロレスについては多少複雑で、正式にNWAに加盟したのが実は1969年 (67か68年から準会員で、遠藤幸吉が67年の年次総会に出席したという説もある)。では、それまでどうだったのかというと、NWA内での位置づけは、日プロ設立以前から日本はハワイ地区の傘下という扱いで、日本に対して選手を派遣する際には、当時の同地区のプロモーターであるアル・カラシック経由でないといけなかったらしい。力道山がデビューしたトリイ・オアシス・シュライナーズ・クラブの興行もこれに当てはまる。これらのことは、1950年代のカラシックと当時のNWA会長サム・マソニック (米国では英語発音のマチニック)との手紙のやり取りで確認できる。1957年にルー・テーズが世界王者として来日し力道山と対戦した際も、立会人はカラシックだった。翌58年、日プロとつながりのあったロサンゼルス地区がNWAを脱退し、NAWA(後にWWA)を名乗ってからも、来日する多くの外国人選手はNWA系だったので、NWAとのパイプが途切れたわけではなかった。
ちなみに、最初ルー・テーズが保持していたインターナショナル・ヘビー級選手権に関しては、一部の情報のように、元々テーズがアントニーノ・ロッカから奪取したわけではない。1990年代初期、テーズ本人がレスリング・オブザーバー・ニュースレターに投稿した手紙によると、テーズがディック・ハットンに世界王座を奪われた後、ヨーロッパ遠征の際、何等かの肩書が必要なので、テーズ自らNWAにインター王者を名乗らせてもらうよう、許可を得たということらしい(イギリスの一部では引き続き世界王者として宣伝されてたが…)。その後のインター王座については4年前にも書いたので、そちらをご覧いただきたい。いずれにせよ、インター王座の由来に少なからずともNWAが関わっていたようだ。日本にあったインター王座を、Wrestling-Titles.comで『NWAインターナショナル・ヘビー級』としているのも、上述の様々な理由による。
約20年前、puroresu.com内に選手権変遷史を載せ始めた頃は、極力『裏事情』について触れずに、スポーツ的な観点で情報提供をしたいという気持ちがあった。そういう面もあって、各選手権に、『ローカルのプロモーターが適当に作ったタイトル』というより、NWAとかAWAとか、認定団体を表面上でもいいから明確にしたかったというのもある。当然のことながら、(特にアメリカの)プロレス史を調べれば調べるほど、それはほぼ不可能ということに気付き始めるわけだが、長年のファンとしては、何等かの権威付けはしたいものだ。
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