今尚NWAを追う(4) – WCW離脱

マイナー団体への道。

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NWA (ナショナル・レスリング・アライアンス)の歴史は大きく分けると、4時代ある。

  1. 1948年7月~1993年9月: 発足~WCW脱退
  2. 1993年9月~2012年8月: WCW脱退、プロ・レスリング・オーガニゼーションLLC設立~加盟団体保険制度に関する裁判に敗訴
  3. 2012年8月~2017年9月: インターナショナル・レスリング・コープLLC設立(ブルース・サープ)~ライトニング・ワンINC(ビリー・コーガン)への売却
  4. 2017年9月~現在

NWAが各地に加盟団体を持つプロレス界の国際的主要組織だったのは、事実上1950年代前半から1980年代中期までの間。1980年代後半になると、ジム・クロケット・ジュニア世界ヘビー級王者のリック・フレアーを独占していた。

だが、そのクロケットも、1987年主にテレビの放送権を目当てにビル・ワットからUWFを買収。せっかくの団体対抗戦の機会をほぼ無視し、テレビ放送権と一部の選手達のみを目的に多額の借金を背負い、翌1988年にはついにテッド・ターナーに身売り。ターナーは、元々主要テレビ番組名だった『ワールド・チャンピオンシップ・レスリング』(WCW)をそのまま新社名に使用。クロケットは引き続きコンサルタント的な立場でWCWに残ったが、あくまでNWA会員なのはクロケットであるにも関わらず、WCWはNWA会員としての権利も手に入れたと思い込んでいたため、選手権やテレビ番組の名称には継続してNWAを使っていた。

1990年7月、スティングがフレアーを破り、世界王座奪取。だが法的には存続していたNWA理事会は11月頃、NWAの承認なしで王座を移動させたとの内容で、WCWに対しクレームを送り付けた。当時のレスリング・オブザーバー・ニュースレターによると、NWA理事会のメンバーとしてクロケットやドン・オーエン(オレゴン地区PNW)、スティーブ・リッカード(ニュージーランド)、ジャイアント馬場(全日本プロレス)らも入っていた。その後間もなく、WCWは(改めて)NWAに加盟するが、混乱を防ぐため、翌1991年1月、フレアーがスティングから王座を奪回した頃にはNWAの名称の使用を止め、全てWCW王座とし、テレビ中継からもNWAの名が消えていった。これにより、フレアーはNWAからもWCWからも世界王者に認定されたことになるが、ファンの大半はもちろん、WCWや、提携し始めていた新日本プロレスには、両王座が同一のものだという認識だった。

1991年3月、新日本プロレスに登場した初のNWA世界ヘビー級王者、リック・フレアーは、『疑惑の裁定』で藤波辰爾に王座を奪われる。この試合を、WCWはWCW世界選手権として放送したが、新日側はNWA世界選手権としていた。5月に行われたフロリダでの再戦でフレアーが藤波を破るが、WCWは藤波の王座奪取を無効とするも、後年NWAは正式に藤波を元王者として認定。

同年7月1日、フレアーはレックス・ルガーとの防衛戦を拒否したことを理由にWCW副社長ジム・ハードによって解雇、WCW世界王座を剥奪される。一方、NWAは引き続きフレアーを認定するが、9月にフレアーがWWFと契約した際、急遽ハードを会長に任命、9月8日付でフレアーから世界王座を剥奪した。その結果、1948年の発足以来初めて同王座が空位となった。この時点でのNWA会員はハード、クロケット(翌年WCWから解雇)、リッカード、ラリー・オデイ (オーストラリア)他数名。

WCWは翌1992年8月、新日本と協力し、NWA世界王座決定トーナメントを東京で開催。この時点でのNWA会員は、坂口征二会長(新日本プロレス社長)、リッカード、ビル・ワット(WCW副社長)の3名の理事他数名。以後しばらく、WCWには2人の世界ヘビー級王者が存在することになる。

この頃から、一部の米国内のインディ団体のプロモーター達は、NWA会員は世界王者を招いて選手権試合を開催する権利があるという、本来のNWAの制度に興味を示し始め、11月にはデニス・コラルーゾ (ニュージャージー)が正式に加盟。翌1993年にはトッド・ゴードン(フィラデルフィアECW)も加盟を申請。

1993年7月、WCWはフロリダのディズニー・ワールドと提携し、先数週間分のテレビ番組をディズニーMGMスタジオで収録し始めた。前半ではある選手がベルトを持って登場、後半では別の選手が同じベルトを持って登場するということなどが繰り返されたため、PPVやTBSでの不定期特番『クラッシュ・オブ・ザ・チャンピオンズ』などの生放送の試合結果が予め判るという状態になった。

そんな中、リック・ルードがNWA世界王者としてテレビ収録に登場。これによって、NWA理事会の承認なしでの王座移動が予定されていたことが判明、再びWCWはNWAからクレームを受けることになる。同じ頃、新日本がNWAを脱退(WCWのテレビ撮りの方針に賛同しなかったことが理由だという説がある)。また、WCWは、NWA規約に反して、インディ団体へのNWA世界王者の派遣を拒否していたことから、他の加盟団体からも非難され、1993年9月3日、ECW加盟が承認された総会が開催された時点では既にNWAを脱退、世界王座も再び空位となった。尚、同総会では、それまでの会長職を(一時的に)中止し、3名からなる執行委員会が結成され、クロケット、リッカード、コラルーゾが就任した。また、ジム・コーネット(ノックスビルSMW)も加盟を申請したが、SMWがWWFと提携していたため保留となった。

WCW離脱によって、NWAは本格的に小規模団体の連盟として歩み始めることになる。


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