テキサスの思い出(7) – 少年の夢

十代の悪役

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ダラス・スポータトリアムの常連だったころ、時々試合後に選手やレフリー、アナウンサーらと食事に出かけることがあったが、プライベートでも仲良くなったのが1人だけいた。

1991年、グローバル・レスリング・フェデレーション(GWF)が旗揚げ。当初のプロモーターだったジョー・ペディシーノは、ファンに『親しみ』を感じてもらえるような番組作りを目指し、ファンとレスラーによる質問コーナーも中継に含めた。

ある日、関係者が、1人の少年に、そのコーナーに出演するよう誘ってきた。ダラス郊外出身で、物心ついたころからワールドクラス(WCCW)をテレビで観戦し、11歳の頃から毎週スポータトリアムに通い続け、プロレスラーになる夢を見ていた、ブランドンという中学生だった。当日、即収録したという。

翌週、テレビ中継のディレクターから、再びブランドンに声がかかった。ペディシーノと、夫人でレポーターとしても活躍していたボニー・ブラックストーンに紹介したいという。かねてから、若いファン達にもアピールするような番組を目指していた2人は、ブランドンを『ブランドン・バクスター』という名のレポーターとして、『ティーン・ビート』というコーナーを番組に新設した。翌1992年、団体の興行権がペディシーノからグレイ・ピアーソンに引き継がれてからも、このコーナーは続いた。

『ティーン・ビート』は決して番組の目玉だったとは言えない。だが、これを機に、ブランドンが活躍し始めたのも事実だ。その結果、なんとかマネージャーに起用され、善玉だったマイク・デービスに付き、時には試合にも出場した。

その後悪役に転向、アイスマン・キング・パーソンズらのマネージャーとして、上下黒でサングラスという、所謂イメチェンを図ったが、周りの目にも、そして本人にとっても、『ティーン・ビート』時代の雰囲気を拭えきれてなかったらしい。

悩んでいたブランドンは周りの関係者達に相談し始めたが、その中の1人に、業界人どころかただのファン、我々の観戦仲間の1人だったPがいた。

Pはその頃からすでにECWのファンで、当時ECWで悪役マネージャーとして人気があったジェイソン・ナイトが、素肌の上に直接スポーツジャケットを着るというファッションだったのを思い出し、ブランドンにも、髪を伸ばし、裸のままスポーツジャケットか何かを着てみるように提案した。60kg弱の筋肉質でもない少年がそうすることにより、うぬぼれた悪役としての雰囲気を出すことができた。

その後は悪役人気が急上昇。なんせ本人は高校生になるかならないかだったもんで、自身が運転して会場入りすることは無く、時々試合後に同じく常連仲間のJの車で帰宅することがあったが、多くのファンが車を囲み、大声でブランドンを罵り、なかなか帰れず、本人が本気で怯えて心配したこともあったくらいだ。

それからも、どんどん悪役としてのキャラクターを確立していった。依然として悪役マネージャーのトップは、ワールドクラス時代から活躍していたスカンドル・アクバだったが、ブランドンはその次くらいだったと思う。

ブランドンが付いてた中には本当に『しょっぱい』選手もいて、試合自体つまらなくても、ブランドンが多少面白くしていたことも多かった。常連だった我々は、ほぼ毎週最前列に陣取り、嫌いな選手やしょっぱい選手には、結構悪質な野次をとばすことが多かったが、友人であるブランドンが付いてる選手には、なかなかそうするのが難しいこともあった。

だが、ある日、詳細は覚えてないが、あまりにも試合が酷過ぎたんで、いつものように最前列に座ってた自分が結構酷い野次をとばしたことがあった。ブランドンは、自分の選手をかばうかのように、こっちに向かってアドリブで、「黙れ、トージョー・ヤマモト!」と叫んできたんで、こっちもすかさず、「お前こそ、シャツの1枚くらい買え!」と返した。そんなノリだったもんで、ある日ブランドンが、「そっちさえ興味があれば、うちのプロモーターに、君のことを日系悪役マネージャーとして使うよう提案してみようと思うんだけど、どう?」とか言ってきた。当然断ったけど。(笑)

その頃は、マイケル・ヘイズとテリー・ゴーディ、ジミー・ガービンのファビュラス・フリーバーズも出場していた時期で、ブランドンをマネージャーに起用する話もあったが、誰かがその案を、某有名ニュースレターの発行人に漏らしたらしく、その話が流れたという残念なこともあった。実現していたら、ブランドンはフリーバーズ最後のメンバーになれてたとこだった。

GWF閉鎖後は、スポータトリアムでの興行を受け継いだジム・クロケット・ジュニアNWAにも継続して出場。だがブランドンはもはや低迷のダラス地区にはおさまらない存在になり、1995年、ダラスを離れ、メンフィスに移りUSWAに出場、ジェリー・ローラーらと抗争を繰り広げた。USWAはテネシー州だけではなく、隣接するアーカンソー、ミシシッピ、ケンタッキー、インディアナなどの各州をツアーする団体だったので、弱冠17歳で南部の大部分で活躍することになる。

USWAには1年しかおらず、その後ダラスに戻り、地元のインディ団体に出場。USWAは1997年11月に閉鎖し、1998年4月にはUSWAで運営に携わっていたランディ・ヘールズがパワー・プロ・レスリング(PPW)を旗揚げ、選手育成団体としてWWFと契約した。ヘールズはブランドンをメンフィスに呼び戻し、マネージャーや選手、そしてブッカーとしても起用した。

PPWが閉鎖した翌2002年以来、メンフィスから車で1時間ほど離れたところにあるアーカンソー州ジョーンズボロのFM局にDJおよびディレクターとして活躍中だが、現在もテネシーやアーカンソーのプロレス団体に出場することがあり、ジェフ・ジャレット主宰のグローバル・フォース・レスリング(GFW)では、同地区の興行も手掛けた。

数年前だったか、ブランドンに関する記事の中で、好きな食べ物の1つに、寿司を挙げてたことがあった。そこにはこう書いてあった。

「自分をダラスの日本食レストランに連れて行って、初めて寿司を食べる機会を与えてくれたヒサに感謝したい。」

昔の話なのに、そうやって覚えてくれてるのは、素直に嬉しいもんだ。

そんなダラス時代のある日、郊外の自宅まで遊びに行ったことがある。

庭にいた白髪の男性が手を振って挨拶してきたが、部屋に入ると、「さっき外で声をかけてきたのは、俺のじいちゃん。でも日本人は嫌いなんだ。」とか言ってきた。一瞬、「なんか嫌なとこに来たなぁ。」と思った。

「実は、俺のばあちゃん、日本人なんだ。」とおしえてくれた数週間後の、ニヤニヤしながらこっちの反応をうかがうブランドンだった。


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