NWA・USヘビー級選手権 (中)

1960年代

カテゴリー: NWA

プロレスにおける米国選手権の名称は、『US』(ユナイテッド・ステーツ=合州)、『アメリカン』、『ナショナル』(全国)と様々だが、NWA加盟団体が認定していたUSヘビー級選手権を中心に書いてみる。3部に分けている中の、今回は1960年代。

1953年に設立されたシカゴ版のUSヘビー級選手権は、全米テレビ中継の力などにより、本部認定ではなかったが、事実上NWA内では世界王座に次ぐ第二のヘビー級選手権の様な位置付けがされていた。そのシカゴのフレッド・コーラーの下で手腕を振るっていたのが、後にNWAの中でも重鎮となるジム・バーネットだ。

バーネットは、1949年頃に情報誌などの広告担当としてシカゴ地区で働き始めたが、1950年代半ばにはコーラーの片腕のような存在になっていた。シカゴ以外の興行は殆どバーネットが担当し、関係者達にとっては、コーラーではなくバーネットが地区全体を仕切っているように見えたという。また、中西部の多くの選手やプロモーター達からも信頼を得ていたようだ。

一方、ロサンゼルスで会員だったが1954年にNWAを脱退していたジョニー・ドイルは、1950年代後半になると、ワシントンDCのビンス・マクマホンや、ボストンのポール・バウザーといったプロモーター達に協力、1957年にシカゴで一度はルー・テーズを破り世界ヘビー級王座を奪取したが後にNWAから認定を取り消されていたエドワード・カーペンティア(実際には英語でもフランス語の『カルペンティエル』に近い発音)を売り出し、北東部の各地域を盛り上げていた。短期間ではあったが、マクマホンやトゥーツ・モントらと共に、キャピタル・レスリングの共同経営者の1人として名を連ねていたこともあったそうだ。

そして1959年、バーネットとドイルは『運命の出会い』を果たし、結託する。オハイオ州シンシナティや、カナダのオンタリオ州ウィンザーで業界としては当時画期的だったテレビ局でのスタジオマッチを開始。知名度の上がった選手達を引っ提げて、ウィンザーから国境の川を越えたとこにあるミシガン州デトロイトにおいて、NWA発足時以来の会員だったハリー・ライトに対して興行戦争を仕掛けた。4月11にオリンピア・アリーナで行われたドイル・バーネット派の『旗揚げ戦』には1万6千人以上の観衆が集まったという。同地ではNWA派に敵対しながらも、シカゴのコーラーとの関係は保っていたため、メインイベントではシカゴ版USヘビー級王者アンジェロ・ポッフォが、それまで何度も同王座を保持していたウィルバー・スナイダーを破り防衛。

尚、バーネットとドイルは、傘下に収めていた全地区ではないにしろ、インディアナポリスなどの一部ではアメリカン・レスリング・アライアンス(AWA)という名称を使っていた。勿論1960年ミネアポリスでウォーリー・カルボとバーン・ガニアが設立したアメリカン・レスリング・アソシエーションとは別団体。

翌1960年1月、バーネットはついにコーラーと袂を分かち、シカゴで誕生したUS王座もデトロイトに持って行かれてしまう。デトロイトのNWA系プロモーターだったハリー・ライトは1961年、バーネットとドイルの興行を手掛けたこともあったが、秋からはコーラーとマクマホン、モントらの応援で再び新勢力に対抗。数ヶ月興行戦争が続いた後、翌1962年春頃には円満に和解し、ライトは完全に撤退。

当時、同じく中西部のオハイオ州コロンバスでは、これまたNWA発足時会員のアル・ハフトが興行を続けていた。1950年代における同地区のトップは東部ヘビー級王者バディ・ロジャースで、オハイオ州のみならず、近隣のペンシルバニア州西部やウェストバージニア州、そしてハフトが選手達を派遣していたメリーランド州ボルティモア、更にはフロリダ州などの広域で人気を得ていた。そこに目を付けたのか、ワシントンDCから北東部の大部分を牛耳るキャピタル・レスリングと協力関係にあったコーラーは1960年、ロジャースをUSヘビー級王者に認定する。以後コーラーやマクマホンらはロジャースの更なる売り出しに大成功し、1961年6月、ロジャースはシカゴでパット・オコーナーを破り、NWA世界ヘビー級王座を奪取。

1960年4月20日、シカゴのフレッド・コーラーと協力関係にあったキャピタル・レスリングのテレビ収録が行われていたコネチカット州ブリッジポートでの試合結果。
現在判明している範囲では、バディ・ロジャースがUS王者だと記述されている最初の記事。ロジャースがシカゴで頻繁に防衛するようになるのは6月頃からだと思われる。

1961年8月に行われたNWA年次総会ではコーラーが会長に就任。また、同総会では、ロジャースに敗れ世界王座を失って間もないオコーナーがNWA本部から正式にUSヘビー級王者として認定され、結果的にロジャースと王座を交換した形になった。ただし、オコーナーのUS王座認定については、各世界選手権のような委員会が設けられず、全てを一任されたサム・マソニック事務局長に王者のブッキング料が入るという理由などから、内部でも疑問視する声があった。あくまで推測だが、マクマホンやモントと共に世界王者ロジャースを独占しようとしていたコーラーは、会長ではなくなったが内部で大きな力を保ち続けていたマソニックにUS王座の権限を持たせておいて、ロジャースの代わりにオコーナーを他地区で泳がせておこうと企んでいたのかもしれない。『飼い慣らされた野生児』でも書いたが、これがNWA内での分裂に拍車をかけ世界王座が乱立する結果となった。一時的にNWAを離脱していたジョージア州のポール・ジョーンズは勿論、NWAに加盟し続けていたノースカロライナ州のジム・クロケット・シニアやフロリダ州のカウボーイ・ラトロールらも、ロジャースが王者だった期間中、NWA会員ではなかったバーネットと協力することさえあった。

バーネットとドイルは、サンフランシスコ地区においても、インディアナポリスで選手として活躍していたロイ・シャイアーをプロモーターに仕立て上げ、アイディア不足で低迷していたNWAのジョー・マルセヴィッチ派にとどめを刺すことになる。1961年1月頃からオークランドのテレビ局から生中継を始め、3月にはカウパレスでの初興行。ここでもトップ選手として起用されたレイ・スティーブンスが防衛していたのはこれまたUSヘビー級選手権だった。マルセヴィッチも、「ワシントンDCでバディ・ロジャースから奪取した」という触れ込みでベテランのベン・シャープをUS王者に認定するなどして再起を試みたものの、もはや仲間のNWA会員達からの応援も得られない程の低迷だった。日本プロレス界草創期における『恩人』と言っても過言ではないマルセヴィッチは1962年3月5日、4千人収容の会場に千人しか集まらなかった興行を最後に4月20日他界。

NWAを引っ掻き回す結果になったドイルとバーネットだが、1964年春、ドイルの友人で、オーストラリアに移っていた元ハリウッドのプロレス関係者から同国初の全国テレビ中継を開始することによりプロレスを盛り上げるよう勧められ、2人でシドニーに行き視察、拠点を移すことを決意した。そのため、アメリカの各地の興行からは撤退することとなった。デトロイトの興行権はエド・ファーハット(ザ・シーク)が買収し、継続したUS王座は再び(表向きには)『NWA認定』となった。

サンフランシスコでは、4年後の1968年にシャイアーがNWAに加盟し、同地区のUS選手権もNWA王座として認定された。尚、昔の日本のプロレス誌でサンフランシスコの王座が『AWA認定』となっていたのは、シャイアーの団体の旗揚げを裏で操っていたのが中西部でAWAの名を使っていたバーネットとドイルだったという理由からかもしれない。

1961年のNWA総会で正式に認定されたオコーナーのUS王座は、当初は各地で防衛されていたが、間もなくセントラルステーツ地区に落ち着き、それも王座移動の殆どがカンザスシティではなくアイオワ州ウォータールーという、地区内でも多少マイナーな位置づけになった。同王座はオコーナー以外にもサニー・マイヤース、ロッキー・ハミルトン、ロニー・エチソンらが保持し、1970年夏頃まで9年間続いた。

1962年7月5日、NWA本部認定USヘビー級王者パット・オコーナーは、ノースカロライナ州グリーンズボロでハンス・シュミットに敗れるが、8月16日奪回。
これ以外にもオコーナーは、フロリダ、アラバマ、テネシーといった南部一帯、そしてオレゴンでもUS王者として活躍。

これだけでも十分に多かったNWA内のUSヘビー級選手権だが、1960年代にはこれらに加え更に続出した。

ハワイでは1962年3月、ニック・ボックウィンケルがUS王者として登場。5度におよびカーティス・イヤウケアが奪取した後、1968年に北米王座に改称されたが、日本でザ・デストロイヤーが保持していたPWF認定US王座のベルトは、このハワイ版の流用だと言われている。

同年夏、カナダのトロントでもジョニー・バレンタインUS王者として登場。ベルトマニアの方々(自分はあくまで変遷史オタクであり、物理的なベルトについては詳しくない)によると、東京プロレスでアントニオ猪木がバレンタインから奪取したUS王座はこのベルトとのことだが、事実、猪木がUS王座を保持していた1966年11月から1967年1月までの間、バレンタインは殆どトロントで試合をしておらず、東プロ閉鎖から数ヶ月後の6月、久々にトロントでUS選手権試合が開催され、タイガー・ジェット・シンに王座を奪われている(猪木が奪取したのとは別のベルトである可能性大)。

1966年秋には、テキサス州サンアントニオでフリッツ・フォン・エリックがUSヘビー級王者に認定されるが、数ヶ月後の1967年3月、フォートワースではブルート・バーナードがUS王者として登場。フリッツはバーナードも破り、ダラス地区でも王者に認定。翌1968年春頃、この王座はアメリカン選手権と呼ばれるようになるが、場所によっては、『USアメリカン選手権』として紹介されることが多かった。

その後も地域制の崩壊が本格的に始まる1980年代前半まで、『NWA認定』USヘビー級選手権の乱立が続くことになる。

 

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